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昭和20年7月空襲当日迄ノ高松市街図
分類番号 | 00004497-001 |
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分類 | 資料 |
時代・和暦 | S25代 |
解説 | 寄贈者の祖父が所有していたものを長らく保管していたが、空襲展等当館の資料として活用してほしいとの意向で寄贈された。 ・木箱(長さ82cm、幅8cm、深さ8cm)入り。木箱の蓋の表には「高松戦災当時市街図」の筆書き、蓋の裏には「高松市戦災者犠牲者遺族会 会長 大西林次」の筆書きと押印がある。 ・この図の作者は、雨宮虎明。なお、雨宮氏については、「高松空襲戦災誌」(高松市役所1983年3月31日発行)の295頁及び「高松の空襲 手記・資料編」(高松空襲を記録する会1978年7月4日発行)の125頁に、空襲時高松市役所内警防団警備班長を務め、死者名簿作成の中心者であったことが記載されている。 ・この地図には日付の表記がない。「高松戦災犠牲者供養会」及び「高松市役所整地課印」押印の日付も書かれておらず不明。ただ、この図が作成されたのはおそらく1950(昭和25)年であるらしきことが、ほかにメモ伝えのような形で記録されている。 【上部真ん中のタイトル「昭和20年7月空襲当日迄の高松市街図」について】 ・朱色の線で囲まれているのは「焼跡」。「フハツ」表記に爆弾が描かれているのは焼跡に不発弾も残ったということであろうか。 ・左端辺り、飛行機が描かれた下~高松戦災犠牲者供養会朱印の間に「昭和20年7月4日午前1時48分 第一空襲爆撃機来襲 同じくB29爆撃機 午前4時20分に去る」とある。 更に、右下死亡者数表横の「高松日本ビルより将校隊、並びに亀井町の八木氏以下12名が屋上にて監視任務当時報告された敵機73機来襲せし事を正しく八木氏より承り書き証す」を説明するようなかたちで、飛行機から右へ向かって塩上町の右、倉敷紡績高松分工場まで、赤鉛筆の線→が引かれ、「第一空襲七三機」とある。 ・朱印の右下の飛行機の下に「最後の敵偵察機 午前4時50分 小豆島の方向に去る」として空襲が終わったことの記録がある。 ・これらの右、”弦打村”の文字の左辺り、「本図は正確なる事を証明する」(雨宮氏の筆跡と異なる筆書き」と「高松市役所整地課印」の押印がされている。 ・左寄り下部「高松の空襲に使用された爆弾ならびに焼夷弾の種類と品名上図の通り」のところで、焼夷弾を描き、30トン、20トン、15トン、5トンの大きさ別と併せて焼夷弾油脂焼夷弾、エリフト焼夷弾、黄燐焼夷弾の3つを示す。 ・雨宮氏は「高松市戦災死亡者芳名録」の中心的作成者であり、右下表の合計1,313人は、当館公表の1,359人に近い。なお、但し書きとして「ここに記された死亡者は火葬場に運ばれた数である。だが市の整地課の方では2,100名と言っている。私の方では2,600名前後とみてただいま捜索中」がある。 ・市街地を中心に当時あった路面電車の駅名「ではれ」「ひろば」など路線についても細かく書かれている。 ・左上部には塩田左に「香川愛国飛行場」の表記がある。 |