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ああ、紅の血は燃ゆる(高松空襲体験記、原稿用紙20枚)

分類番号00004454-000
分類資料
時代・和暦2019.06.24
解説・著者は、寄贈者の姉で、1933年生(昭和8年)で高松空襲体験者である。
・寄贈のあった2019年6月現在86歳、札幌在住で、高松市内在住の妹に手記を託し、当館に寄贈の上、広く公開し、戦争の悲惨を継承し、平和の大切さを啓蒙してほしいとの強い要望があった。
・手記内容は、1945年7月4日高松空襲の前日、7月3日の午後3時に、著者(当時12歳)の兄(当時14歳)が、軍の将校3人に呼び出され、空襲が始まったら、倉敷飛行機株式会社から、重量書類を持ち出すよう指示されていた、というエピソードを主に書きたかったそうだ。
・当時、兄は倉敷飛行機株式会社、通称「倉飛(クラヒ)」に、学徒挺身隊として労働しており、前述の任務を命ぜられたようである。
・7月4日高松空襲は、伝単等により予告されており、空襲が間もなくあろうと予測していた一般市民も少なくなかったらしい。
・案の定、7月4日未明、高松空襲により、旧市内80%が焼失する惨事の最中、兄は命がけで任務を果たした。その後、一家6人は知人のつてで、塩上町3丁目の焼失した自宅から、沖松島付近で暮らし始めた。
一家は、両親と長男(兄)、長女(著者)、次男~四男の7人であったが、母親は妊娠5か月であり、戦後に寄贈者(著者の妹)が生まれることとなる。
・戦後、一家は北海道に移住したが、父親の割りばし事業(北海道の材木原材料に)が思い通りに立ち行かず、高松に戻るが、著者は縁あって、そのまま札幌在住で現在に至る。
・自慢の兄であったが、兄(1931年~2003年)は享年72歳でこの世を去った。栗林公園内の奨励館に、兄が戦前作成した空襲ゲームが全国規模の某コンクールで受賞し、長らく展示されていたとのことである。
・当時、空襲で被災した者は珍しくなかったが、14歳の少年が重責に命がけで守った資料は、空襲直後の8月15日玉音放送と共に、全て焼き捨てられた、兄の心情を思えば、一被災者として一括りにされたくない気持ちから、手記を書いたのである。

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