高島秋帆

人物名(ヨミ)タカシマ シュウハン
人物名(英語)TAKASHIMA Shuhan
国籍日本
生年月日(西暦)1798/9/24
生年月日(和暦)寛政10年09月24日
没年月日(西暦)1866/2/28
没年月日(和暦)慶応02年02月28日

略歴・解説

江戸時代後期の砲術家。諱は茂敦、字は舜臣、通称は四郎太夫、秋帆はその号である。寛政10年(1798)長崎町年寄高四郎兵衛の三男として長崎に生まれる。父のあとをつぎ、のち長崎会所調役頭取となった。長崎港の防備を担当した関係で、はじめ荻野流砲術を学んだが、のち出島の蘭人から西洋砲術を学び、これを高島流砲術とよんだ。西洋近代砲術を最初に紹介したものといえる。伝存する『高島流砲術秘伝書』は、オランダの砲術入門書の翻訳である。天保11年(1840)9月、秋帆は幕府に上書して、アヘン戦争の戦況を伝え、清国側の敗北を砲術の未熟に帰して、西洋砲術の採用による武備の強化を進言した。翌年幕命により出府し、徳丸ヶ原で秋帆所持の輸入砲四挺の実射と歩騎兵の演練を行なった。そのため名声がおおいに挙がり、幕府は高島流砲術を採用することとして、前記の輸入砲をすべて買い上げ、あわせて代官江川英龍(太郎左衛門)に砲術の伝授を命じた。すでにこれ以前に佐賀藩および薩摩藩が高島流砲術を採用しているが、幕府についで諸藩がひろく高島流砲術を採用するのは、これ以来である。秋帆の在府中にかなりの門人があり、ほぼ確認できる数をあげると、幕臣(陪臣を含む)は11人、諸藩士は13藩にわたり、30人である。さらに長州藩では、秋帆の帰国後、藩士を派遣して入門させているが、他藩でも同様の例がみられる。しかし、他方、高島流砲術の隆盛は、幕府内部の守旧派の忌むところとなり、当時町奉行の鳥居耀蔵(甲斐守忠耀)が長崎奉行伊沢政義と組んで秋帆を罪におとしいれようとした。そのため天保13年10月に秋帆は逮捕されて江戸に送られ、町奉行鳥居の手で取調べをうけ、のち評定所で再吟味が行なわれ、弘化3年(1846)7月に中追放の判決をうけて、武州岡部藩に預けられた。嘉永6年(1853)ペリー艦隊の来航に伴い、江川英龍の進言により赦免されて、通称を喜平と改め、江川のもとで鋳砲に従事し、のち講武所砲術師範にあげられて、幕府の軍事の近代化に寄与した。

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