立原 杏所

人物名(ヨミ)タチハラ キョウショ
人物名(英語)TACHIHARA Kyosyo
生年月日(西暦)1785
生年月日(和暦)天明05年
没年月日(西暦)1840

略歴・解説

 水戸藩の彰孝館総裁立原翠軒(1744~1823)の子として、水戸に生まれる。 名は任、字を子遠、甚太郎(のち任太郎)と称し、東軒、杏所、香案外史などと号した。19歳で家督を継ぎ、小姓頭にすすんで禄二百五十石を給せられた。有能な藩士として徳川斉昭(烈公1800~1860)の信任が篤かった。父翠軒は学者として名を成し、『大日本史』編纂の大事業にあたった、その父について幼少から学を修めた。また翠軒は、水戸における文化的側面の中心的存在、学者、文人との交流も深く、杏所にも大きな影響を与えた。
 画は林十江(1777~1813)に学んだのち谷文晁(1763~1840)に師事した。花鳥画、山水画ともに優れ、画風は平明で瀟洒なその高潔な人となりをあらわす作品が多い。そのいっぽうで自由奔放に筆をふるった「葡萄図」(重要文化財)のような作品もある。また篆刻、画の鑑識に長じていた。渡辺崋山、椿椿山(1801~54)と親しく、崋山の入牢・蟄居の際、椿山とともに救援活動の中心として活躍した。

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