三宅友信

人物名(ヨミ)ミヤケ トモノブ
人物名(英語)MIYAKE Tomonobu
人物名(原表記)三宅 友信
人物名(別名)鋼造(通称)、子信(字)、毅斎、王山、芳春、片鉄(号)、安原殿(敬称)
人物名(別名ヨミ)コウゾウ(ツウショウ)、ししん(あざな)、きさい、おうざん、ほうしゅん、へんてつ(ごう)、アバラドノ(ケイショウ)
国籍日本
出身地武蔵国江戸麹町・田原藩上屋敷
没地東京府
生年月日(西暦)1807/01/05
生年月日(和暦)文化04年01月05日
没年月日(西暦)1886/8/8
没年月日(和暦)明治19年08月08日
流派蘭学・兵学

略歴・解説

田原藩第8代藩主康友(1764~1809)の四男として生まれ、9代康和(1798~1823)・10代康明(1800~1827)は異母兄にあたる。母は銀、通称を鋼蔵、毅斎・芳春堂・片鉄などと号す。『鈐林必携』では上田亮章と称す(上田亮章は田原藩士で、中小姓格32俵使番格、上田九左衛門政亮の嫡男で、友信の納戸役を勤めた喜作)。兄康明が文政10年(1827)に亡くなると、友信が藩主となるはずだったが、藩財政が厳しく、病弱を理由に跡継ぎとして不適当とされ、姫路藩から持参金付きの稲若(のちの康直、1811~1893)が養子として迎えられる。翌年、友信は藩主の座に就いていないものの家督を譲って引退した隠居として扱われ、渡辺崋山が友信の側仕えを兼ねるようになる。友信は崋山の勧めにより蘭学研究をするようになり、友信が隠居していた巣鴨の田原藩下屋敷には蘭書が山のように積まれていた。高野長英・小関三英らに蘭書の翻訳を行わせた。天保11年(1840)5月7日に田原へ移り、今田村安原へ御殿を建て、居住した。安政3年(1856)には語学力を高く評価され、蕃所調所へ推薦され、翌年に入所している。維新後は田原に居住し、明治14年には、『華山先生略伝補』(重要文化財)を著し、晩年は東京巣鴨に移り、明治19年8月8日逝去、東京都豊島区雑司ケ谷の本浄寺に葬られた。昭和10年(1935)、没後50年には従四位を贈られた。渡辺崋山の書簡には天保元年頃から登場する。著書に『鈐林必携』、『西洋人検夫児日本誌訳』(天保3年、国立国会図書館蔵)、『泰西兵鑑初編訳』(安政3年刊)、『泰西兵鑑二編訳』、蘭書目録編(巴江神社蔵)がある。絵もたしなみ、田原市博物館には「花鳥図」(21歳)、「竹之図」(22歳)、「豊年楽事」五言律などが所蔵され、市内では、城宝寺に「平生萬事」七言律(36歳)、巴江神社に「有待解」(57歳)などがある。

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