1 安政江戸地震圧死者供養塔

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回向院の石造歴史災害供養塔群

登録・指定登録文化財
種別有形文化財(歴史資料)
ふりがなえこういんのせきぞうれきしさいがいくようとうぐん
員数7
寸法解説文中に記載
所蔵者宗教法人回向院(墨田区両国二丁目8番10号)
解説 この供養塔群は、回向院の境内にある下記の7基で構成されます。墨田区が有形民俗文化財として既に文化財登録していた「回向院の六面六地蔵石幢(安政二年大地震・安政三年大水横死者供養塔)」を有形文化財(歴史資料)「安政二年・三年両度天災横死諸靈魂追善供養塔」に変更し(種別及び名称の変更)、これに新たに6基を追加する形で一群として文化財登録したものです。いずれも社会に甚大な影響を及ぼした、わが国の歴史災害について示唆的な資料群で、中には発災当時の実情を後世へ伝えるために建立されたものもあります。近年の防災意識と過去の災害経験に対する関心の高まりに鑑み、あらためて注目していただきたい文化財です。

【大地震に関するもの(一部に大風水害の被害に関する伝承を含む】
1 安政江戸地震圧死者供養塔(安政3年5月)
 この供養塔は、安山岩製で、総高353.2cmを測ります。棹石の正面に増上寺第66世冠譽慧巌が揮毫した大書の六字名号(南無阿弥陀仏)が彫られ、背面に学寮僧であった徹定(鵜飼徹定)が撰文し、正道(人物未詳)が浄書した安政3年(1856)5月付けの銘文が刻まれています(鐫刻は石井松鶴、造立は和泉屋庄兵衛)。その銘文によれば、この供養塔は、安政2年10月2日(1855年11月11日)「夜亥上刻」(午後10時頃)に江戸を襲った大地震で多数の死者が発生したことを受け、左官職「玖八」(大和屋九八)とその同職仲間(麻布左官若者)が犠牲者の霊を慰めるべく建立を企図し、その志を嘉した冠譽慧巌が六字名号を揮毫することにより造立されました。幕末の安政江戸地震の被害の大きさを彷彿させる石塔です。

2 安政二年・三年両度天災横死諸靈魂追善供養塔(安政4年8月22?日)
 この供養塔は、安山岩製で、総高223.9cmを測ります。最上段に六地蔵を彫刻した六面石幢を据えたもので、基壇には回向院第17世猛譽得行が寄せた銘文が確認できます。その銘文からは、安政2年10月2日(1855年11月11日)の夜四つ時(午後10時頃)に江戸において大地震が発生して人家・倉庫が倒壊するとともに江戸市中数十か所から火災が発生したこと、これらにより数えきれない多数の圧死者・焼死者が出たことが知られます。また、翌3年8月25日(1856年9月23日)夜五つ時(午後8時頃)から勢力を増した大風雨(台風)の被害にも触れており、この大災で家々が倒壊したこと、海岸や川岸に大水が溢れて家々が流され、多数の溺死者を出したことも知られます。

3 地震焼亡横死諸群霊塔(慶応2年3月)
 この供養塔は、安山岩製で、総高393.7cmを測ります。棹石の正面に回向院第17世猛譽得行が揮毫した大書の六字名号(南無阿弥陀仏)が彫られ、他3面に書家の瀧川寛斎が揮毫した紀年銘が刻まれています。その紀年銘は、この石塔が特に地震災害の犠牲者の群霊を永代供養するために慶応2年(1866)3月に建立されたものであること、建立と同時に回向院に日牌回向料100両が寄付されたことを示しています。なお、台石には発願主をはじめとする造立関係者とこれを補助した人々の名前が刻まれており、熊本新田藩所属の「部屋頭」であった「風戸氏」が中之郷竹町など本所地域の北部に暮らした各町住人や南八丁堀町など本所以外の各地商工人の協力を得て造立したものであることが分かります。また、造立にあたって熊本新田藩主が援助していたことも知られます。明治期に「安政地震塚」として取り扱われていたらしいことから、安政江戸地震で亡くなった群霊の供養を目的として造立されたものと考えられています。

4 大震災横死者之墓(関東大地震横死者供養塔)(大正12年9月)
 これは、総高236.1cmを測る供養碑です。石碑の正面中央に「大震災横死者之墓」と大きく彫られ、その右側に「大正十二年九月一日九十有餘名」、左側に「施主相生理髪業組合」と彫られています。また、前に置かれた線香立の正面には「大震災死者」、「両國署管内石碑保存會」と彫られています。以上のことから、この供養碑は、「相生理髪業組合」が大正12?年(1923)9月1日午前11時58分に発生した関東大地震による犠牲者の霊を供養するために建立し、「両國署管内」の住人が「石碑保存會」を設置して維持を図ったものと考えられます。

【火山噴火に関するもの(一部に凶作、飢饉、疫病、大火に関する伝承を含む)】
5 信州浅間山噴火以来天災横死者供養塔(寛政元年7月)
 この供養塔は、安山岩製で、総高342.0cmを測ります。棹石の正面に六字名号(南無阿弥陀仏)を彫り、他3面に青山梅窓院第12世法譽(蘭若性山)が撰文し、書家の脇田赤峰が浄書した寛政元年(1789)7月付けの銘文が刻まれています。その銘文によれば、江戸幕府第11代将軍徳川家斉は、寺社奉行松平信道(丹波亀山藩主)を通じて、浅間山噴火以来の度重なる災害の中で亡くなった犠牲者の群霊を供養するために、天明8年12月29日(1789?年1月24日)に、京都、江戸、陸奥・出羽・上野の「名刹六処」に対して鎮魂の法会を執行するよう命じました。この結果、増上寺から指示を受けた回向院でも法会を執行する運びとなり、江戸市中の諸寺院の援けを得て寛政元年2月11日から13日(1789年3月7日~9日)にかけて実際に法会が執行されました。そして法会が終了する間際に回向院第12世在譽巌龍が供養塔の造立を企図し、法会を執行することとなった経緯とともに法会の際に実際に読誦した祭文を後世へ伝え遺すこととしました。なお、祭文は、大規模な泥流被害を伴った天明3年7月の浅間山噴火による被害の様相と、その前後から東北地方を襲った飢餓と疫癘の凄惨な光景を髣髴させつつ、天明8年正月に発生した京都大火の惨状にも触れたもので、最後にこれらの諸災害の中で亡くなった多数の荒霊に向けて極楽浄土へ遊べと慰めの言葉を与えています。こうしたことから、この供養塔は、全国的に災害が多発し諸方で多数の死者を出した天明時代の世相と共に、当時の危機的事態に幕府がどのように対応したかという史実について示唆的な資料だと言えます。

6 天明三年癸卯七月七日八日信州上州地変横死之諸霊魂等供養塔(天明5年7月)
 この供養塔は、安山岩製で、総高273.7cmを測ります。棹石の四面に謙譽敬天が回向院第11世を務めた時代の天明5年(1785)7月付けの紀年銘が刻まれており、この石塔が天明3年(1783)7月に発生した浅間山噴火による犠牲者の霊を供養するために建立されたものであることが分かります。建立したのは「紙屋喜八」をはじめとする「朝参講中」で、この講中が回向院を参詣する度に僅かの賽銭を積み立てて建立に至ったことも知られます。

【大火に関するもの】
7 文政十二丑年三月二十一日焼死無縁塔(文政12年3月21日)
 この供養塔は、安山岩製で、総高108.9cmを測ります。棹石の正面上部に2行書きで「文政十二丑年三月二十一日」と彫られ、その下に「焼死無□□」と大きく彫られています。剥落により「無」の下の2字が既に欠失していますが、ここにはそれぞれ「縁」「塔」の二字が彫られていたのではないかと推量されます。現時点で施主は不明ですが、この供養塔が文政12年3月21日(1829年4月24日)に神田佐久間町を火元として発生した文政の大火の犠牲者の群霊を供養するために建立されたものであることは明らかです。

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