略歴・解説 | 幕末維新期に活躍した木挽町狩野家の画家。
狩野養信の長男として生まれる。幼名は栄次郎。勝川、勝川院と称し、素尚斎(そしょうさい)、尚古と号す。
画を父・養信に学び、天保8(1837)年より奥御用を勤める。
天保9~10(1838~29)年の江戸城西の丸御殿障壁画制作に参加。
弘化元~2(1844~45)年の江戸城本丸御殿の障壁画制作に中心画家として携わり、その功によって、同年、法眼に叙される。
弘化3(1846)年、養信が没し、その跡を継ぎ、十代目当主となる。
嘉永5(1852)年、江戸城西の丸御殿障壁画制作の総指揮を執る。
万延元(1860)年、法印に叙される。
奥絵師として順風満帆なキャリアを積んでいたが、明治維新によって江戸狩野派が解体され、明治5(1872)年、木挽町の屋敷は上地となり、妻の実家に寓居する。
明治10(1877)年、米国博覧会、内国勧業博覧会事務局に勤める。
最晩年の明治12(1879)年には大蔵省にも勤務した。
門下には、勝川四天王と称された狩野芳崖(1828~1888)、橋本雅邦(1835~1908)、木村立嶽(りつがく)(1828~90)、狩野勝玉昭信(1840~1891)らがおり、近代日本画の礎を築いた画家を輩出した。
現存作品は七十点程度確認され、江戸狩野派の画家としては多いが、祖父・狩野栄信や養信と比べると極端に少ない。今後の作品の発掘が期待される。
代表的な作例としては《十牛図襖絵》(大徳寺大圓庵)、《鷹狩図屏風》(ライデン国立民族学博物館)、《龍田図屏風》(バウアー・コレクション)、《唐美人図》(個人蔵)、《源氏物語図屏風》(下関市立美術館)、《花鳥図》(静岡県立美術館)のほか、ボストン美術館に作品が多数現存する。
江戸狩野派最後の重鎮であり、明治初期の日本画の展開を考察するうえでも、さらなる研究を必要とする画家である。
※鍬形蕙林「狩野勝川院塾と芳崖と雅邦」(『書画骨董雑誌』9号 1907年)
細野正信『日本の美術 ブック・オブ・ブックス五二 江戸狩野と芳崖』(小学館 1978年)
田中敏雄「文化のネットワーク」(『大名茶人 松平不昧展』島根県立美術館 2001年)
榊原悟「波濤を越えて」(『美の架け橋―異国に遣わされた屏風たち』(ぺりかん社 2002年)
塩谷純「狩野勝川院雅信《龍田図屏風》ジュネーヴ バウアー・コレクション」(『美術研究』388号 2006年)
浦木賢治「江戸狩野派の明治初期の動静について」(『狩野派と橋本雅邦―そして、近代日本画へ』埼玉県立歴史と民俗の博物館 2013年)
浦木賢治「江戸狩野派の明治初期の動静について」(『埼玉県立歴史と民俗の博物館紀要』9号 2015年)
『幕末狩野派展』(静岡県立美術館 2018年)
2021年『忘れられた江戸絵画史の本流―江戸狩野派の250年/江戸狩野派の古典学習―その基盤と広がり』、p. 162に加筆修正
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