略歴・解説 | 画家を志し、1952(昭和27)年に武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)に進学するも、実家の家業が傾き1954(昭和29)年にやむなく大学を中退、1956(昭和31)年に一家で清水に移り住む。ここ清水で、転地療養のため同年東京から移住し、鈴与株式会社に勤務しながら文芸活動を行っていた石子順造と出会う。1957(昭和32)年11月に石子が発起人となり立ち上げた、グループ「白」の中心メンバーとして活動した。当時、清水で食堂を営んでいた伊藤の家に、グループ「白」の事務局がおかれ、機関誌『白』の発行元となった。1958(昭和34)年に第11回日本アンデパンダン展に出品、1960(昭和35)年1月に東京の村松画廊で「伊藤隆史・鈴木慶則2人展」が開催される。同年6月には、石子、鈴木とともに「白」の名義で評画誌『フェニックス』を発行、合作の印刷絵画を発表した。1961(昭和36)年発行の『フェニックス』2号には伊藤の名前は無く、これを最後に「白」の活動は途絶えている。伊藤は、1966(昭和41)年に石子が鈴木や前田守一らと立ち上げた新しいグループ「幻触」に参加することはなく、その後は独自の道を歩んだ。
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