略歴・解説 | ハンブルクに近いヴェーデルの医師の家庭に生まれる。表現主義の彫刻家、版画家、劇作家として知られる。父の死後、1888年にハンブルクの工芸専門学校に入学。91年、ドレスデン・アカデミーで彫刻を学ぶ。95年パリのアカデミー・ジュリアンに遊学。1897年から1904年までパリ、ハンブルク、ベルリン、ヴェーデルなどに在住。1904年から06年までへル陶芸専門学校で教鞭を執る。当時の作風はユーゲント・シュティール風の装飾的なもので、独自の表現にはいたらなかった。1906年のロシア旅行でロシアの農民や乞食に強い印象を受け、以後、作風が大きく変化した。1909年フィレンツェで1年学び、陶器や磁器でロシアの農民をモティーフに制作し、ベルリンのゼツェッションに出品。1910年以降晩年まで、ギュストローに在住し、1919年プロイセン芸術アカデミーの会員、25年ミュンヘン芸術アカデミー会員となる。33年文化功労賞を受賞。作家として認められていく一方で、ナチスによる弾圧も受け、各地の作品が撤去・破壊、制作や展覧会が禁じられ、作品や画集が没収、頽廃芸術展にも陳列された。迫害の中、ロストックにて脳溢血で没し、ギュストローに埋葬された。木彫、ブロンズ、陶器などによる彼の彫刻作品には、生地のドイツ的、北方的、ゴシック的な要素が色濃く顕れている。版画作品は自身が執筆した劇脚本の挿絵として描かれることが多かったが、いずれも素朴で重厚な印象を与える。没後、ギュストローのアトリエは美術館となっている。
1996年『静岡県立美術館コレクション選』、p. 176 |