略歴・解説 | 18世紀のイタリアの版画家、建築家。石工の息子としてヴェネツィアの北20キロにあるモリアーノに生まれる。母方の叔父で建築家のマッテオ・ルッケージのもとで、透視図法と舞台装飾を学ぶ。新任の教皇ベネディクトゥス十四世を表敬訪問するヴェネツィア大使マルコ・フォスカリーニの随員のひとりとして、1740年に初めてローマに赴く。ローマでは景観版画家ジュゼッペ・ヴァージについて、エッチング技法の習得につとめ、1743年に≪建築と透視図法第一部≫を出版する。その後ヴェネツィアに戻り、その頃刊行されていたG.B.ティエポロやカナレットのエッチングを研究する。1745年以降はローマに定住し、≪グロテスキ≫や≪ローマの景観≫を刊行。1749‐50年頃もっともよく知られた≪牢獄≫初版を出版、以後も≪古代ローマ》《バエストゥムの景観》《ローマの遺跡≫など多くのエッチング作品をのこした。考古学に関しても論客であったピラネージは、ヴィンケルマンによるギリシャ至上説に反駁し、ギリシャはエトルスクの模倣であるとして、ローマ至上説を提唱した一人でもあった。ヨーロッパ中に流布した彼の版画は、ローマを一度も訪れたことのない人々にパンニーニの景観図とともに、永遠の都の偉容を伝えることになった。ローマに没。
1996年『静岡県立美術館コレクション選』、p. 175 |