略歴・解説 | 静岡県天竜市に生まれる。本名ふく。1926(大正15)年静岡県女子師範学校を卒業し、天竜市横山高等小学校の教師となる。翌年、教師を辞め、千葉県大網町の石井林響、次いで京都の西山翠嶂のもとで日本画を学んだ。
1938(昭和13)年、第2回新文展に《紅裳》を出品、特選を受賞する。1948(同23)年、上村松篁・広田多津らと創造美術を結成。翌年京都市立美術専門学校の助教授に就任。1951(同26)年2月、第1回上村松園賞受賞。8月、創造美術が新制作派協会と合流、新制作協会日本画部会員となる。
インドのビスババラティー大学に客員教授として招かれたのを契機に、1962(同37)年より、10回にわたり渡印し、インドの風土や風俗に取材した作品を多数制作する。1986(同61)年、毎日芸術賞受賞。1991(平成3)年、文化功労者表彰。1993(同5)年、日本芸術大賞受賞。1998(同11)年には、故郷天竜市に市立秋野不矩美術館が開館した。1999(同12)年、女性画家として4人目となる文化勲章を受章。翌年には新たな題材を求めてアフリカを初訪問するなど、一貫して絵画制作に情熱的に取り組んだ。2001(同13)年、心不全のため自宅アトリエで逝去。享年93才。最後まで絵筆を持ち続け、画家としての生涯をまっとうした。
《廻廊》(1984・昭和59)や《廃墟II》(1989・平成1)・《雨雲》(1991・同3)などに代表される、インドに取材した一連の作品には、旅行者としての漂泊性や日本画特有の感傷性が払拭され、あふれるばかりの力強い筆致と鮮やかな彩色による重厚な画面が展開している。秋野にとってインドの自然や人々が、作品制作上の単なる「モティーフ」ではなく、作品制作の根本である、人間存在に対する問いかけの「象徴」となっていることを意味していよう。
2002年『静岡ゆかりの画家たち』、p. 80 解説に加筆修正。 |