朝日新聞 昭和29年8月14日
ラストヴォロフ事件
よみがな | ラストヴォロフジケン |
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解説 | 日本がサンフランシスコ講和条約の発動によって独立を回復して間もない昭和29(1954)年1月のことである。駐日ソ連元代表部のラストヴォロフ二等書記官が東京の元代表部から忽然と失踪した。同代表部と届け出を受けた警視庁は必死にラストヴォロフの行方を追ったが、杳として行方は分からなかった。 それから7カ月後、米国ワシントンで国務省が本人同席のもとでラストヴォロフの亡命を発表した。その席でラストヴォロフは、自分はソ連内務省所属の情報将校で、滞日中も情報活動を展開し、政府の官僚や民間人から日本についての機密情報を入手していたと語った。すなわち、講和条約によって西側に組み込まれた日本の情報を収集していたというのである。 この発表に基づいて日本の公安当局は、ソ連に情報を売っていた日本人スパイの調査を始めた。外務省の事務官3名が国家公務員法違反容疑で逮捕され、通産省、大蔵省、内閣調査室や、民間の貿易会社、新聞、通信社、シベリア抑留からの帰還者など数十名が調査の対象となった。このうち、外務省事務官のひとりは、東京地検の取調べ中に隙を見て窓から飛び降り自殺をするという悲惨な結果となった。 ところが、大がかりな調査の割には、逮捕者は外務省の3名だけ。まことに線香花火的な結果に終わってしまったのである。しかし、日本を舞台にした米ソの情報戦で、アメリカ側は、日本にはソ連のスパイがわが物顔に暗躍しているという印象を日本人に与え、逮捕者数以上の大きな成果をあげたのだった。 |
作品名 | 日本の黒い霧 |