風間 完 画
二・二六事件(4)特設軍法会議
よみがな | ニ・ニロクジケン(4)トクセツグンポウカイギ |
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解説 | 二・二六事件のあと、「粛軍と庶政一新」というスローガンを掲げて広田弘毅内閣が成立した。「粛軍」の実態は、皇道派の一掃に他ならない。事件を奇貨として新統制派と呼ばれる勢力が実権を握り、文字どおり皇道派の息の根をとめる人事が行われた。 世間もまた、新統制派の動向を認める雰囲気だった。五・一五事件では、被告の海軍将校や陸軍の士官候補生に対して、減刑嘆願書が軍法会議に山のように寄せられたが、二・二六事件では様相は一変した。多くの重臣が殺傷されたことも、国民の不信を買った理由だろう。しかしもっとも致命的だったのは、入隊して2カ月にも満たない初年兵を含む1400名の下士官兵を自分たちの目的遂行のために動員し、彼らに「国賊」の汚名を着せたことだった。 「庶政一新」は、国防の充実、生産力の拡大、国民生活の安定といった準戦時体制の確立である。とくに新蔵相馬場鍈一は高橋財政を根本から手直しすると声明して、公債増発と増税を柱とする新財政をかかげた。そのほとんどを、軍事費に充てるためである。 こうした情勢の中、事件終結から一週間も経たない昭和11(1936)年3月、特設陸軍軍法会議が設立された。通常の軍法会議では、裁判の公開、弁護、上告などが認められているが、戒厳令下で行われたこの特設軍法会議では、審理は非公開、弁護人なし、上訴権もなく一審で刑が確定する。「暗黒裁判」と呼ばれたこの法廷で青年将校や下士官、兵、北一輝などの民間人160 余名が審理された。 皇道派将校に対する陸軍省の方針は決まっていた。むしろ問題なのは、直属の上官に連れ出されてクーデターに参加させられた数多くの初年兵を含む兵への判決だった。兵士たちの行為そのものを咎めれば、軍隊の基本である「命令・服従」の関係が崩壊することになりかねない。彼らは同志ではなく、上官の命令に従っただけなのだから。 約2ヵ月の審理期間を経て、同年7月5日、軍関係者に対する判決が言い渡された。安藤輝三ら15名の青年将校と、退役した磯部・村中の17名が死刑。前の15名はわずか1週間後、収容されている東京都渋谷区の陸軍衛戌刑務所で銃殺刑が執行された。また、渋川・水上の民間人2名も死刑となった。 翌12年8月14日、北・西田に死刑判決が下り、裁判の証人として処刑を延期されていた磯部・村中と共に、19日に銃殺刑となった。しかし、9月に真崎に下された判決は、意外にも証拠不十分による無罪だった。兵士たちの多くは無罪(一部は執行猶予つきの有罪)の判決をうけたあと、所属の原隊を追って渡満した。決行部隊の下士官は一部を除いて免官となり、不起訴または無罪および執行猶予つき有罪決定者は除隊となった。実刑を科せられた下士官たちは服役後、一兵士として召集された。こうして、事件に参加した下士官兵の多くは、満洲での交戦とそれにつづく日中戦争、太平洋戦争で戦死した。(「昭和史発掘」7) |
作品名 | 昭和史発掘 |