風間 完 画

二・二六事件(2)背景

よみがなニ・ニロクジケン(2)ハイケイ
解説 皇道派青年将校たちは、相沢事件が起こると昂奮した。あの老先輩の相沢がやった。われわれは相沢さんに遅れをとった。こうしてはいられない。
 相沢公判廷は、さながら皇道派による「昭和維新」革命のプロパガンダの場と化した。同時に、直接行動によるクーデター計画への動きも急速に高まっていった。
 彼らに最も大きな思想的影響を与えたのは、北一輝である。明治16(1883)年佐渡に生れた北は、上京後、苦学をしながら24歳で大著『国体論及び純正社会主義』を自費出版し、諸家の絶賛を博していた。
 北のカリスマ性を考える上で、生来の霊的な資質を見落とすことはできない。日蓮宗の熱心な信者である北は、法華経を唱読するうちに一種の憑依状態になり、大塩平八郎や乃木大将らの霊としばしば語り合ったという。二・二六事件のさなかにも、叛乱将校に「霊告」による予言を行っている。大川周明は、北を「魔王」と呼んで忌避した。が、この魔王は、三井財閥に皇道派の情報を売る「革命ブローカー」の面をも併せもっていた。
 昭和6年、9年の大凶作によって、農村の疲弊は頂点に達していた。蓄えの米を食いつくした農民は娘を売るしかなかった。兵士の姉や妹が娼婦として売られゆく惨状は、帝国陸軍を内部から瓦解させかねない。農村出身の兵を預かる青年将校たちにとっても他人事ではなかった。
 皇道派青年将校の中心人物のひとり安藤輝三大尉も、そのひとりだった。彼は硬骨漢だが情誼にあつく、自分の給料を割いて困窮した兵たちの実家に仕送りをさせていた。兵士への私的制裁は日本の旧軍にはつきものだったが、己にも、部下の下士官にも許さなかった。下士官兵からの信頼は圧倒的だった。磯部浅一らの蹶起派から″安藤が起てば三連隊が動く″と期待されていた。
 安藤は直情的な磯部らと異なり、部下の兵をクーデターに参加させることには最後の最後まで慎重だった。しかし、青年将校の不穏な動きを察知した軍上層部が、三連隊を含む第一師団を満洲へ移駐させるという噂が広がる。時間の切迫と皇道派からの期待に抗しきれなくなった安藤が決行を決意したとき、二・二六事件は始まった。(「昭和史発掘」7)
作品名昭和史発掘

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