風間 完 画
二・二六事件(1)前史「相沢事件」
よみがな | ニ・ニロクジケン(1)ゼンシ「アイザワジケン」 |
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解説 | 陸軍省軍務局長・永田鉄山が、白昼、局長室で陸軍中佐・相沢三郎に軍刀で斬殺された相沢事件は、帝国陸軍史上の一大汚点となったばかりか、翌年の二・二六事件の導火線の役割も果たした。 事件は、真崎甚三郎教育総監の更迭に端を発する。真崎は皇道派青年将校たちにとって精神的支柱であり、真崎もまた、彼らの支持を集めるために迎合した。しかし重臣たちは、真崎ら皇道派が陸軍中枢を占め、専断することを不快とし、青年将校たちが真崎を担いで軍事クーデターに走ることを危惧していた。昭和10年7月、陸軍大臣林銑十郎は、永田軍務局長ら統制派の進言を容れて真崎を更迭。併せて陸軍首脳部から皇道派の徹底的な排除を図った。 永田鉄山は、陸軍の逸材であった。″永田の前に永田なく、永田の後に永田なし″と言われ、頭脳明晰にして思考力は柔軟、視野も広く、その実力は他の軍人と一桁も二桁も違っていた。 事件を起こした相沢三郎は、陸士を出たあと地方の隊付将校を歴任し、昭和8年、45歳で中佐になった。同期の者はすでに大佐に昇進していた。早くから皇道派の一員だったが、深い思想上の理由があったわけではない。剣道の達人で、素朴で頑固、しかも忠君愛国の一徹な軍人精神に固まった男だった。 昭和10(1935)年8月12日、軍務局長室に入った相沢は、二人の将校と話していた永田を認めると軍刀を抜いた。隣室へ逃れようとする背中へ軍刀を突き刺し、倒れた永田の咽喉に、武士の作法通り、とどめの一刀を浴びせた。 永田の死は、相次ぐクーデター計画へと暴走する皇道派にも、それを抑え込もうとする統制派にも、大きな衝撃を与えた。両派のせめぎあいは、半年後の二・二六事件で頂点を迎えることになる。 (「昭和史発掘」7) |
作品名 | 昭和史発掘 |