風間 完 画
天皇機関説
よみがな | テンノウキカンセツ |
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解説 | 明治の終りから大正の初めにかけて、東京大学法学部教授・美濃部達吉と同僚の憲法学者・上杉慎吉の間に、美濃部の「天皇機関説」をめぐって論争がくりひろげられた。このときは学会内の論議にとどまったが、昭和10(1935)年2月、貴族院本会議で菊地武夫議員が「国体に対する謀叛」と攻撃したことから、議会内外で美濃部に対する批判が一気に噴出した。国粋主義者や陸軍内部の皇道派だけでなく、野党である政友会が岡田啓介内閣の倒閣運動に利用し、美濃部学説は政争の具とされることとなった。激しい攻撃の渦巻く中、不敬罪で告発され、検事の取調べを受けた美濃部は、一部の学説を撤回して貴族院議員を辞任した。 昭和11年2月21日、東大を定年退官して吉祥寺の自宅で隠棲していた美濃部のもとへ、福岡市の弁護士と名乗る男がやって来た。美濃部の教え子だという。応接間に通された男は、持ってきた果物籠から奉書のような紙を差し出した。美濃部が何気なく開くと、いきなり「天誅」という大きな文字が目に飛び込んできた。おどろいた美濃部が立ち上がりかけたとき、果物籠を探っていた男の手が黒く光る拳銃をつかみ出した。逃げかけた美濃部に向かって轟音一発。右足を撃たれた美濃部はすぐに大学病院に運ばれ、弾丸の摘出手術を受けた。 術後の経過が順調でない美濃部が病院のベッドに体を横たえて5日後の2月26日、警視庁から電話がかかってきた。「いま、陸軍の部隊が首相官邸はじめ、ほうぼうを襲撃しているが、その一部はそちらに向うかも分らない…」。 二・二六事件が発生したのだった。 (「昭和史発掘」6) |
作品名 | 昭和史発掘 |