風間 完 画

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京都大学の墓碑銘

よみがなキョウトダイガクノボヒメイ
解説 昭和7(1932)年10月、京都大学法学部教授・滝川幸辰(ゆきとき)は中央大学で「トルストイの『復活』に現れた刑罰思想」という講演を行った。これが、いわゆる「滝川事件」の端緒である。
 翌8年3月、日本は国際連盟を脱退した。世の中が確実に全体主義へと傾斜していく中で、学問の自由と大学の自治を標榜する大学教授たちも、その渦から自由であることはできなかった。同じ3月、貴族院と衆議院で、滝川の中央大での講演と一般向けの著書『刑法読本』が赤化思想の宣伝にあたるとして批判され、鳩山一郎文相も滝川の辞職または休職を要求した。
 ここから滝川をダシにした、政府と京大法学部の綱引きが始まった。法学部教授会は抗議の意志を表すため、教官全員の辞表を提出。京大総長も辞任した。ところが新総長が慰留をはじめると、教官たちは相次いで辞表を撤回して残留を決め込み、結局、法学部長と滝川ら七教授が辞任して学外に去るに留まった。文部省が京大法学部に勝ったのである。
 その背景には、京大の他学部、また他大学の教授たちがひとごとのように静観していたことも大きい。東京大学法学部教授・美濃部達吉は、文部省の態度は誤っているがこの戦争は負ける、負けると決まったらやってもしようがない、と教授会で語った。しかし、ことは対岸の火事ではすまなかった。(「昭和史発掘」6)
作品名昭和史発掘

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