風間 完 画
五・一五事件
よみがな | ゴ・イチゴジケン |
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解説 | 五・一五事件には、その伏線となった事件がある。 昭和3(1928)年頃、茨城県磯浜町大洗に、法華経の教義と社会改造を説く日蓮宗の僧侶がいた。名を井上日召という。日召は熱烈な口調で政治家、特権階級や財閥を批判し、国家改造の必要性を訴え、そのカリスマ的な魅力によって青年たちを帰依させた。やがて青年たちは海軍の若手革新派将校と連絡を取り合うようになった。 昭和7(1932)年2月に前蔵相井上準之助を暗殺した小沼正、3月に三井合名理事長の団琢磨を暗殺した菱沼五郎は、日召の弟子であった。 ──いわゆる血盟団事件である。 そして同年5月15日夕刻、海軍青年将校、陸軍士官候補生と、在野の国家主義団体「愛郷塾」生らが、クーデターを目論んで蹶起した。犬養毅首相、牧野伸顕内相、政友会本部などが狙われ、変電所襲撃による帝都暗黒化計画などもあった。 犬養首相は、官邸内の日本間で一団の軍人に襲撃された。「騒がんでも話をすれば分る」とおだやかに言いかけた犬養に拳銃が発射され、さらにとどめの一発が頭部に撃ち込まれた。犬養はこの夜遅く、絶命した。 首相は暗殺したもののクーデターは失敗に終り、犯行グループは海軍・陸軍・民間に分かれて裁判にかけられた。被告たちは公判廷で農村の疲弊を訴え、世間はあらためて農民の惨状を知った。検察側の論告も被告たちに同情的で、判決は無期懲役以下の寛刑が下された。しかも、恩赦・減刑などで短期のうちに出獄し、満洲に渡って特務機関で働いた者が多いといわれる。 この事件以後、軍部は政治に対して強力な発言権を持つようになった。 (「昭和史発掘」4) |
作品名 | 昭和史発掘 |