風間 完 画
天理研究会事件
よみがな | テンリケンキュウカイジケン |
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解説 | 大正3(1914)年の夏、山口県で天理教の布教にあたっていた大西愛治郎は、丹波市の本部に対する「反逆」のために布教師の資格を取り消された。大西と妻と老母は三人の子を背負って、故郷の奈良県へ向かった。一家は炊事道具まで売りつくし、汽車賃もなく、徒歩で炎天下の山陽筋を歩きつづけた。老母が樹の根につまずいて倒れても、子どもを背負っている夫婦は助けることもできなかった。雨宿りをさせてくれる家もなく、終夜、雨の中をさまよったこともあった。困窮は帰郷してからもつづいた。 この「放浪」の原因は、天理教本部の教義に対する「反逆」であったが、大西からみれば、自分たちの教えこそ正統だった。大西の教義はやがて多くの信者を獲得し、「天理研究会」(のちに「天理本道」さらに「ほんみち」と改称)として独立した。大西は天理教の正統を意味する「甘露台様」を称し、「天理研究会」は隆盛をむかえる。 だが、教義をめぐる教団同士の争いではすまない事態が発生した。昭和3(1928)年4月、警察は大西の教義が不敬罪にあたるとして一斉に「天理研究会」を捜索、信者385 名を検挙、うち190 名を起訴した。不敬罪容疑で公判に付された大西ほか29名は、一、二審は有罪、大審院では無罪の判決が下った。しかし昭和13年、治安維持法違反と不敬罪で再び大西と信者380 名が検挙され、大西ら4名は昭和20年まで獄につながれた。 (「昭和史発掘」7) |
作品名 | 昭和史発掘 |