風間 完 画

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佐分利公使の怪死

よみがなサブリコウシノカイシ
解説 中国公使佐分利(さぶり)貞男が箱根の富士屋ホテルで怪死を遂げた昭和4(1929)年は、対中国積極政策を展開していた田中義一内閣が張作霖爆殺事件の処理をめぐって、昭和天皇への食言問題で総辞職した年であった。あとを受けて首相に就任した民政党の浜口雄幸は、風雲急を告げる日中関係正常化のため、中国公使に中国側にも人望のあつい佐分利を起用した。その佐分利が外務省との打合せのため一時帰国していた11月29日早朝、ひとりで投宿した富士屋ホテルの一室で、遺体となって発見されたのである。
 朝6時半に起こすよう依頼されていた従業員が部屋に入ると、ベッドに横たわった公使が頭から血を流して息絶えており、その右手には大型の拳銃が握られていた。外部から他人が侵入した形跡もなく、自殺と断定されたが、不審な点がいくつも指摘された。その最たるものは、佐分利公使は左利きだったのに、右手に拳銃を持ち、右こめかみを撃ち抜いていたことである。事件の真相は、今もって不明である。
 佐分利公使の最大の課題は、満洲問題の解決であった。当時の満洲には満鉄のほか、その権益に蝟集(いしゅう)する大陸浪人や軍人たちがおり、浜口内閣の対中国政策を「軟弱外交」として攻撃していたのが、これら満洲人脈に連なる日本人である。事件当時、箱根塔ノ沢の旅館には、満洲にも勢力を誇るある国粋主義団体の頭首がしばしば逗留していたのは、単なる偶然だろうか。
(「昭和史発掘」3)
作品名昭和史発掘

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