朝日新聞 昭和27年4月11日
「もく星」号遭難事件
よみがな | 「モクセイ」ゴウソウナンジケン |
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解説 | 昭和27(1952)年4月9日早朝、日本航空の旅客機「もく星」号は福岡の板付をめざして羽田飛行場を飛び立った。この日、東海道一帯の天候は、きわめて悪かった。低気圧の接近に伴い、伊豆半島から大島にかけて、海上・陸上とも高度5000~6000メートルまで雨雲がたれこめ、視界はゼロに近かった。気流もひどく悪く、「もく星」号は悪気流の真っただなかに飛び込むことになった。はたして同機は離陸20分後に消息を絶った。 海上保安庁や日航などで捜索中、午後3時すぎになって米軍は、静岡県浜名湖西南16キロの海上で同機を発見、乗客全員を救助したと発表した。ところが翌日朝、「もく星」号は伊豆大島の三原山噴火口近くでバラバラになって発見された。乗員乗客37名は全員死亡。 米軍に発見され、全員救助されたはずなのに、同機はなぜ三原山に墜落していたのか。最初の情報と事実との相違は、あまりに大き過ぎる。 著者は、「もく星」号の飛行記録、パイロットと所沢のジョンソン基地の航空管制官との交信記録を丹念に分析してその謎を解いてゆく。原因は米軍管制官の高度指示のミスであった。視界ゼロで、計器と無線指示だけが頼りの同機は、指示に従って高度2000メートルで飛行し、三原山に激突した。そして米軍は、自らの過失を糊塗するため、占領軍の威信にかけても墜落現場の発見を遅らせ、日本側事故調査委員会の要請も突っぱねて事故の真相を隠蔽しなければならなかった。サンフランシスコ講和条約が発効するのは、同年4月28日のことである |
作品名 | 日本の黒い霧 |