風間 完 画

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芥川龍之介の死

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解説「天才の一面は明らかに醜聞を起し得る才能である」(『侏儒の言葉』)と書いた芥川龍之介が自殺を遂げたのは、昭和2(1927)年7月24日のことである。
 この年は不況の絶頂期だった。街には失業者があふれ、金融恐慌のため台湾銀行をはじめ、およそ40行近い銀行が経営破綻を来し、昭和5年の昭和恐慌を迎えることになる。こうした社会情況を背景として、おりからプロレタリア文学が勃興していた。芥川の遺書「或旧友へ送る手記」にあらわれた「ぼんやりした不安」の正体を、社会相やプロレタリア文学運動に見ようとする意見は従来から多い。しかし、本当にそうだろうか。
 東京帝国大学英文科を卒業する年に発表した「鼻」が、師である夏目漱石の激賞を受けて、若き天才は幸福な文壇デビューを果たした。自分が天賦の才能をもった作家であるという矜持は、芥川の支えであった。東大卒業後、一時教鞭を執った海軍機関学校の教職ですら、芥川には「余技」であり「文学的には全然不必要」とみなしていた。
 芥川は、その創作上の着想や人生までをも、もっぱら書物の上での仮想体験に頼っていた。実社会での生活体験がない以上、そうせざるを得なかったのである。和漢洋古今の書物の渉猟による知識と作家としての技巧は、芥川の文名をいよいよ高めていったが、それは両刃の剣でもあった。実人生を持たない若き天才は、やがて架空の人生を書きつづけることに行き詰まらざるを得なくなる。そのとき芥川は36歳でみずからゲーム・セットを宣言しなければならなかった。
(「昭和史発掘」2)
作品名昭和史発掘

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