風間 完 画
朴烈大逆事件
よみがな | ボクレツタイギャクジケン |
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解説 | のちの下山事件の教科書(テキスト)となったかのような謎の死を遂げた 石田基検事が手がけていた重大事件の一つが、朴烈(ぼくれつ)大逆事件であった。 大正12(1923)年9月、関東大震災の直後に検束された朝鮮人朴烈(バクヨル)と内妻金子文子は、共謀して爆弾で摂政宮(昭和天皇)暗殺を図った容疑で起訴された。実際には爆弾を入手しておらず、具体的な準備も行なわれていなかったにもかかわらず、大正15(1926)年3月25日、現在の最高裁にあたる大審院で二人に死刑判決が下された。10日後、両人は特赦により無期懲役に減刑されたが、金子文子は4カ月後に刑務所内で首を吊って自死した。 二人の「大逆事件」が世の中の耳目をそばだたせ、憲政会の第一次若槻内閣を巻き込んだ倒閣運動にまで発展したのは、予審中に取調室で二人が仲睦まじく抱き合った写真が世間に流出したからである。虚無主義に近い強烈な無政府主義思想を持った二人に摂政宮爆殺の企図を自供させることは容易でなく、取調べにあたって予審判事は異例の懐柔策を用いた。対決訊問と称して二人を引き合わせた際に撮影された″怪写真″が外部に持ち出され、右翼関係者たちは司法大臣江木翼を攻撃し、野党の政友会や政友本党はこれと組んで事件を倒閣運動の具として利用した。しかし、三党党首会談の末、始まったばかりの昭和新政に鑑み、これ以上の問題化を避けることで合意した。 朴烈は昭和20(1945)年に釈放された。金子文子が予審中に書いた手記『何が私をこうさせたか』は、最底辺の境遇に生まれたひとりの女が虚無思想にのめりこんでゆく過程を切々と訴え、読む人の心を深く打たずにはおかない。 (「昭和史発掘」1) |
作品名 | 昭和史発掘 |