毎日新聞 昭和25年5月7日
追放とレッド・パージ
よみがな | ツイホウトレッド・パージ |
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解説 | 昭和20(1945)年8月の敗戦につづく占領下の日本に、公職追放とレッドパージの嵐が吹き荒れた。GHQが昭和21(1946)年1月に出した覚書に基づき、戦争犯罪人や職業軍人、極端な国家主義者とみなされた者は、公職から追放され、活動や再就職を禁止された。極端な国家主義や全体主義を標榜する結社・団体も、解散を命じられた。 当初、日本側は公職追放候補者のリストを作成して、約3千人の該当者を選んだが、日本の民主化を推進するGHQ民政局長のホイットニーは、たったこれだけかと不満を示した。ドイツでは同様の追放令で30万人のナチ関係者が追放された、日本でも同様の規模が必要だというのである。追放令の適用範囲は東京にとどまらず、公務員や旧職業軍人だけでなく、新聞・出版・映画・演劇・放送の各分野にまで広がった。追放者の三等親までが公職に就くことを禁止するという厳しさであった。この追放令によって、昭和23(1948)年5月の時点で、19万3千人以上が職を追われた。やがて事態は、公的審査だけでなく、密告や投書によって追放者を決定するところにまで至った。日本人が日本人を占領軍に売るのである。 しかし、GHQ内部で民主派を追い落とした反共派が権力を握ると、状況は一転した。昭和25(1950)年5月のマッカーサー声明によって、共産党員とそのシンパ(同調者)を公職や企業から追放するレッドパージが始まったのである。 追放とレッドパージが完全に解かれたのは、昭和27(1952)年4月にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立を回復してからであった。 |
作品名 | 日本の黒い霧 |