朝日新聞 昭和24年7月7日
下山国鉄総裁謀殺論
よみがな | シモヤマコクテツソウサイボウサツロン |
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解説 | 昭和24(1949)年7月6日、前日から行方不明となっていた国鉄総裁下山定則が、常磐線綾瀬駅付近で轢死体となって発見された「下山事件」は、占領下の日本で起こった代表的な怪事件である。国鉄総裁が、当の国鉄線路上で変死体となって発見された。自殺か、他殺か? 捜査にあたった警視庁捜査一課(殺人、強盗事件などを担当)と同捜査二課(知能犯担当)で、見解はまっぷたつに分かれた。長年殺人事件捜査にあたってきた一課が独特の「カン」から「他殺の臭いがない」と主張すれば、二課は「これまでの犯罪史上では考えられないような知能犯罪」と切り返す。解剖を担当した東大法医学教室教授・古畑種基は「死後轢断(他殺)」説を主張したが、この鑑定を疑問視する声も挙がった。 下山はGHQの起案した「行政機関職員定員法」に従って、7月末までに9万5千人もの国鉄職員のクビを切らねばならない立場にあった。行方不明になる前日の4日、第一次人員整理3万7千人の氏名が発表されている。 他殺説を主張していた二課の係長は、なぜか捜査から外され、警視庁は自殺説へと傾いていった。 当時日本を支配していたGHQ内部には、日本の民主化を進めようとする勢力と、日本を反共の砦にしようとする勢力の暗闘があった。下山は総裁の職にありながら、組合に同情的であった。彼は知らず知らずのうちに、日本の「行き過ぎた民主主義」を危惧する勢力を刺激したのかもしれない。警視庁は自殺として捜査を終了したが、今日でも下山総裁は謀略に巻き込まれたと見る人も少なくない。 |
作品名 | 日本の黒い霧 |