開拓者 三木 勉

分類郷土資料館資料
郷土資料館手稲記念館
郷土資料館分類開拓の歴史
分類番号111-2
受入番号177
資料解説宮城県磐城郡(いわきぐん)(現在の宮城県南部一旧刈田県)白石の人。仙台白石支藩片倉家の家臣で家は代々家老職にあった。天保13年(1842)2月 父弘人の子として生まれた。明治4年(1871)、29歳の時、元白石藩の人々の北海道葉団移住に加わり、石狩から上手稲開拓者の移動が決定した明治5年(1872)貫属(かんぞく)取締役(開拓団の人達を取り締まる役目)を命じられ、47戸を率いて入植した。その時34歳で、学徳に優れた三木勉は開拓団の人達から推薦されて時習館(じしゅうかん)の塾長となり特色ある教育をした人である。これが手稲教育の始まりとなった。上手稲村に在住した年月は、短時日であってが、教化を通じて地方開発に尽した功績は大きかった。後年、月寒村の戸長(村長)に就任したこともあった。
札幌創建百年にあてって出された「札幌百年の人びと」の中には三木勉の業績や経歴が記されている。
写真説明手稲の開拓に努力した三木 勉

PageTop