略歴・解説 | 近代大阪を代表する日本画家のひとり。1878年(明治11)、鳥取市の母方の里にて生まれる。本名は藤太郎。まもなく一家で大阪に移る。11歳の時、絵師であった父・盛南が中風症で倒れたため、高等小学校を中退して画業に入る。はじめ父の指導を受け、その後は独学で勉強をする。はじめ「盛虎」と名乗り、1895年(明治28)より「静湖」に改号し、時に「静香」の号も使用した。主に歴史画など史実に基づいた主題を多く手がける。1899年(明治32)神戸新聞社に挿絵画家として入社。1901年(明治34)から2年ほど、大阪陸軍地方幼年学校で教鞭を執る。この頃から漢学を山本梅涯に、国学を鎌垣春岡に、書法を大村楊城に学ぶとともに、四天王寺雅亮会に入り舞楽の素養を身に付ける。
1902年(明治35)、鎌垣春岡から「国を守る男子」の意味をもつ「楯彦」の号を授けられる。この頃より冷泉為恭に傾倒し、為恭風の「菅」印を使用する。1917年(大正6)遠藤美記子(富田屋八千代)と結婚し、世間の注目を集める。大正の終わり頃からは、近代化の影響で失われつつある大阪の風俗を惜しみ、幼い頃に生活した下町の風景など、浪速風俗画を手がけるとともに、「浪速御民」の称号を用いるようになる。
1952年(昭和27)大阪名誉市民章、昭和32年芸術院恩賜賞受賞、没後の1978年(昭和53)倉吉市から名誉市民賞を追贈される。 |