詩書屏風
ふりがな | ししょびょうぶ |
---|---|
作品名 英表記 | |
作家情報 | 山田 方谷 YAMADA Hokoku |
制作年 | 安政5年 |
制作年 西暦 | 1858年 |
員数 | 6曲1双 |
材質・技法 | 紙本墨書 |
形状 | 屏風装 |
指定 | |
署名・年記等 | |
大区分 | 書 |
中区分 | 墨跡・真名 |
小区分 | 近世日本 |
作品解説 | |
法量 縦 | |
法量 横 | |
法量 高さ |
ふりがな | ししょびょうぶ |
---|---|
作品名 英表記 | |
作家情報 | 山田 方谷 YAMADA Hokoku |
制作年 | 安政5年 |
制作年 西暦 | 1858年 |
員数 | 6曲1双 |
材質・技法 | 紙本墨書 |
形状 | 屏風装 |
指定 | |
署名・年記等 | |
大区分 | 書 |
中区分 | 墨跡・真名 |
小区分 | 近世日本 |
作品解説 | |
法量 縦 | |
法量 横 | |
法量 高さ |
作家情報名(ヨミ) | やまだ ほうこく |
---|---|
作家情報名(英語) | YAMADA Hokoku |
生年月日(西暦) | 1805/**/** |
生年月日(和暦) | 文化2年 |
没年月日(西暦) | 1877/**/** |
没年月日(和暦) | 明治10年 |
略歴・解説 | 備中国阿賀郡西方村(高梁市中井町西方)の農商の家に生まれた。幕末・明治時代期の儒者で、備中松山藩士。名は球、字は琳卿、通称は安五郎、方谷と号した。文政10(1827)年に上洛し、寺島白鹿に儒を学んだのち、帰藩して藩校有終館会頭に任じるも、天保3(1832)年に、江戸に出て佐藤一斎に師事し、佐久間象山らと交わった。天保7(1836)年に、再び帰藩し、翌年には、有終館学頭を務めるかたわら、塾を開いて子弟に教授した。また、備中松山藩主板倉勝静に重用され、藩の要職を歴任。藩政改革を行い、巨額の負債を償却して財政危機を脱するなど、大きな業績を残した。その改革は、諸藩にも知れ、越後の長岡藩(現新潟県長岡市)の河井継之助をはじめ、方谷に学ぶ者は全国に及んだという。明治元(1868)年には、松山城を無血開城して、主君や領民の安全を守ったことでも知られる。方谷の、陽明学を主とし程朱をも採り入れた経世の実学は、高く評価され、同6(1873)年備前岡山の閑谷学校再興時には、召されて講学。多年にわたり教育にも尽力してきたが、同9(1876)年病に罹り、翌6月26日小坂部(岡山県新見市)にて没した。 |