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仁林聾仙筆「仁林聾仙画帖」

分類絵画
資料名(ヨミ)ニバヤシロウセンヒツ ニバヤシロウセンガチョウ
寸法(原寸)29.5×15.2
成立年代不明
公開解説 仁林聾仙(1865~1935)は、大垣藩士後藤(後に仁林に改名)五介の三男として生まれた。名は繁三郎・憲信、号は聾仙・煙雨楼・雲脚仙史・葛蕈生・騰峯猟夫(とうほうりょうふ)という。明治3年(1870)に、川で溺れたときの影響で内耳炎を患い、耳が不自由になってからは、独学で学問や日本画を学んでいた。明治15年(1882)から、日本画家の久保田米仙と森寛斎に四条派の画法を学び、明治33年(1900)ごろから本格的に画家として活動し始め、第5回大阪勧業博覧会などの展覧会で入賞した。大正9年(1920)に野村龍太郎に招かれ満州へ渡り、大正13年(1924)に家族を大連(現在の中国遼寧省)に呼び、永住した。
 この作品は、画手本であり、花鳥画や人物画など計17点の淡彩画が描かれている。

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