アメリカからペルーへ08 群居する家屋 貧しい衣服 食事 「バリヤーダの人々1」

アメリカからペルーへ08 群居する家屋 貧しい衣服 食事 「バリヤーダの人々1」 岸本建男 1971年8月20日

No博-1795
資料名(よみ)あめりかからぺるーへ08 ぐんきょするかおく まずしいいふく しょくじ 「ばり 「ばりやーだのひとびと1」 きしもとたてお 1971ねん8がつ20にち
概要1971年(昭和46年)8月20日 沖縄タイムス
詳細アメリカからペルーへ08 
群居する家屋 貧しい衣服 食事 「バリヤーダの人々1」

岸本建男

 遠くのほうでバスを降りると、くるぶしまでのめり込んでしまいそうな砂の坂道を、ゆっくり登っていった。道の両側に並んだ掘っ立て小屋の開け放たれた暗い入り口の奥から、見慣れぬよそ者に投げかけられる視線を背中に感じながら、砂だらけの小高い丘を歩いていくのはいささか苦痛であったが、四日間を過ごす約束のオティボ家をたずねていった。
 オティボ氏の住居は、シウダー・デ・ディオス(神の町)という名前のスラム街の中心地から少しそれた所にあって、サンフランシスコと呼ばれる区域もある。もっとも、この町全体をスラム街と言ってしまうのは正確ではない。十五年前にリマの街はずれの砂ばくの中に誕生したシウダー・デ・ディオスは、中心地にはすでにレンガ作りの家が建ち、道路も車が自由に通れるように整備され、人々の生活もさして悪くはない。
 しかし、十五年の間に中心地の外側に広がっていった無数の家々は、明らかにスラムの観を呈している。たとえば、オティボ氏の住むサンフランシスコ区にしても、人口は3000人を越しているが、出来てからまだ五年しかたっていないので、他の十四の区と同様にスラムであり、家屋、食事、衣服などは非常に貧しい。
 リマを車でひとまわりすると、どんな旅行者でも、このシウダー・デ・ディオスのような異様なスラム街に気づくだろう。街を一望のもとにおく丘の斜面、郊外の砂ばく、町はずれの海岸や砂丘の谷間、あるいは建築中のモダンな住宅地の隙間をぬって群居する家屋は、ときには人口三万を越す大集落になることもあり、壮観ですらあるのだが、おそらくこれは、南米的貧困のすさまじい内容を何よりも雄弁に物語っている。
 リマ市民は、これらのスラムを「ばりやーだ」(Barriada)と呼んでいる。市当局やペルー政府関係者は、この語の持つイメージを嫌って、最近「若い町」(Pueblos Jovenes)などという気どった名前を思いつき使用しているらしく、公的な文書や新聞などでよく見かける。だが、バリヤーダの根本的な解消方法が実施されない現状では、バリヤーダの暗い現実が改善されるわけではないし、従って人々の口からバリヤーダという呼び名を奪うことも出来ないだろう。私も、「若い町」という官製の臭みのする用語など、使いたくない。
 その圧倒的な大きさから予想されるのとは違って、バリヤーダの歴史はまだ浅い。スラム形成の直接原因である国内の人口移動の端初が、たかだか25年前のことで、バリヤーダは25年の間に恐ろしく膨張してきたわけである。その膨張速度は、ペルーの専門家ですら予測出来なかったはずである。
 わがオティボ家の人々も、リマの北方、トルヒーヨからやって来た。
 ペルーでは、首都リマを中心にして、北方をノルテ、南をスールと言い、西側の海岸地帯をコスタ、アンデスの縦走する山岳地帯をシエラ、シエラの裏側の熱帯地方をセルバ(あるいはアマソナ)と呼んでいる。バリヤーダ住民は、この中のあらゆる地方から流れてくるのだが、流入方法は単純ではない。
 一度、シエラやノルテの中小都市に移動した後に再びリマに動く人々、あるいは、シエラやセルバから鉱山や炭坑の町に移り住んだ後でリマに来る者、シエラやセルバに農耕地を変えてから農業を捨ててリマに集まってくる人々など、さまざまな経路をとっており、複雑なコースは最終的にはリマに集中し、バリヤーダが終着駅になっている。
 また、オティボ家の移動が親戚ぐるみであったように、人々の移動には面白い特色がある。初めに、家族や村を代表した人々が、30人とか100人の部隊を作ってリマにやって来ると、国有地をあっという間に占拠して掘っ立て小屋をこしらえ、ペルー国旗をかかげてしまう。親戚を総動員した部隊とか、パイサーノ(同郷人)によるこれらの占拠は、インパシオン(侵入)と言われているが、政府も市当局も対応策を持たず、侵入の後に呼び寄せる家族や村人で、バリヤーダはまたたく間にふくれて行き、手のつけようもなくなっていく。
 このように侵入した人々は、例外なく「生活の新しい機会」を求めた人たちである。彼らにチャンスは与えられるだろうか。
 彼らを古里から追い出したペルーの国内事情は、都市生活を送る場合にも同様に過酷であり、彼らを待っていたものは、失業者のあふれた都会と、ルンペンプロレタリアートとしての生活でしかなかった。そして、人口だけがふえていく。
 1961年には、リマ人口136万人の20%にあたる27万人でしかなかったバリヤーダの人口は、70年には300万人に対する90万人となり、10年後の1980年には、リマ人口600万人のなかの70%にあたる420万人が、バリヤーダの人口になると予想されている。「(教育協会)調べ」
 ペルー政府が、どのような対応策を準備しているのか私はしらないが、激しく膨張を続けるバリヤーダの奥には、いつか爆発する時限爆弾が秘されているかもしれない。

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