アメリカからペルーへ05 言葉をなくした旅行者 メキシコ

アメリカからペルーへ05 言葉をなくした旅行者 メキシコ 岸本建男 1971年7月30日

No博-1792
資料名(よみ)あめりかからぺるーへ05 ことばをなくしたりょこうしゃ めきしこ きしもとたてお 1971ねん7がつ30にち
概要1971年(昭和46年)7月30日 沖縄タイムス
詳細アメリカからペルーへ05 
言葉をなくした旅行者 メキシコ

岸本建男

 メキシコの国境を越えると、もうそこからラテン・アメリカが始まる。別の言い方をすれば貧困が始まると言ってもいい。
 アメリカのすばらしいハイウェーはほこりの舞いたつ道に変わり、きれいな住宅は、カサ・グランデと呼ばれる共同住宅に変わるし、清潔なレストランもそこいらにハエの飛びかう食堂に一変する。しかしそれは、私にとって決して不快なことではない。バスに揺られてメキシコ・シティーに向かう旅は、新たな世界に踏み込んでいく期待にあふれたものであった。
 南北アメリカ大陸を縦断するパン・アメリカン・ハイウエーに乗って、ペルーまでの長い道を下って行くのは、おそらく旅の醍醐味をじゅうぶんに味わわせてくれるものと考えて、途中の疲労や危険を考慮せずにロスを出発した。しかし、メキシコ・シティーから南へ下る輸送機関が発達していないことと、中米諸国国境でのバス連絡の状態を調べるのがペルー到着までに要する日数が正確にはわからなかったし、おまけにパナマの一部で、パン・アメリカン・ハイウエーが完成していないため、船でコロンビアに渡らなければならず、それとの連絡などを考えると、三週間やそこらでペルーに着くのは不可能であるとの予想があった。
 それで、三週間より長い期間を要するのであれば、メキシコからペルーに飛ぶことにして、いちおうメキシコ・シティーまでバスで行くことにしたわけである。
 「国境の南」は風物がまるで異なるが、中でも最も著しく変化したと思われたのは言葉である。私は突然、言葉をなくした旅行者になった気がした。バスの出発時間を報せるアナウンスもまるでわからないし、音楽的に響くスペイン語で何か言われても、くやしいかなさっぱり理解出来ず、おかげで、バスを逃がしてしまいそうなことが三度もあった。
 言葉の通じない国を一人で行くのは、ときによって危険であるかもしれない。ちょっとしたいさかいや警察官とのいざこざなどは、たちまち面倒なことになるおそれがあるし、言葉の不自由な点につけ込まれると、いやな目に会うことだってあるだろう。なまじ人を信用したばっかりに、泣くような結果を招くこともありがちだ。けれども私の場合、ロスからメキシコ・シティまでの50時間は、楽しいものであった。旅にあって、何を楽しいこととみなすかは、旅人の性格、個性によるもので、一概には言えないが、私にとっては、言葉の通じないことが原因で起こるいろいろなことが、楽しい思い出になりそなうものばかりである。
 言葉による意思の交流が不可能なとき、人はさまざまなコミュニケーション手段を発見する。それは、なまじ言葉を知っているよりも、はるかに豊かな実りをもたらすこともあるのだ。
 多くの場合、言葉なしの状態を救うのはゼスチュアであるがときには、ささいな目の動きや指の動きでも考えていることが伝わることがあり、それがもとで思わぬ友人が出来ることもある。スペイン語を全く知らなかったおかげで親しくなった友人たちのうち、二人が特に印象に残っている。そのうちの一人は食事の面倒をよくみてくれた。
 バスは、食事の時間になると予定された食堂兼バス・ターミナルに到着するようになっている。スペイン語の料理の名前など知らない私は、偶然に同じテーブルに腰かけた人々のうちから、うまそうな皿を指して、「これ、これ」と言う。指さされた人も給仕も不審げな顔をするが、意図はすぐに理解できるので間もなく料理が運ばれてくる。ところが今度は、食べ方がわからない。なにしろ土地の料理は独特の食べ方があるが、知らないのが当然であるが、知らない故をもって、いつもサンドイッチだけを食べるのは馬鹿である。メキシコまで来るとアメリカと違って食べ物が非常に安くなるから、うまい物を食べないと損だし、長い旅では、安くて栄養のある土地名物をとらないと長持ちしないだろう。
 そこで、隣の人の食べているのをじっと見て、相手が見返したときに自分の皿を指さし、頭をちょっとひねるといい。相手はすばらしいインスピレーションで、たちどころにこちらの意図をおしはかり、手をとって教えてくれることになる。なにしろラテン・アメリカの人は親切で世話好きだ。
 そのようにして友人になった青年は、メキシコ。シティーに着くまで私の食事を心配してくれて、おかげで二日間のうちに、安い料理の食べ方はほとんどマスターすることが出来たし、おまけに、のんきな私がバスに乗り遅れそうなときなど、大声で「ハポネス、ハポネス」と叫びながら捜しに来てくれたりした。
 もう一人の友は、スペイン語を忍耐強く教えてくれた。
 例えば、山あいに寄り添うようにして出来た寒村の、みすぼらしい家並みから抜き出た協会をじっと見つめていると、となりの座席から「イグレシア」と声をかける。なるほど、教会はイグレシアであるのか。裸で道路に飛び出して遊んでいる子どもたちを見ていると、「ムチャーチョ」と教えてくれる。スペイン語を「カステヤーノ」と呼ぶことを知ったのも彼のおかげである。
 もし私のメキシコ滞在が一カ月でもあれば、この両人とは、親友と言える友人になっていてだろう。お互いに通じ合う言葉を持たなくても。心のふれ合いの仕方と、コミュニケーション手段に知恵を絞れば、異国に親しい友を作るのも自然に出来るという確信がメキシコで生まれた。

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