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写真
ID | 1246 |
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機関記号 | 9901667 |
資料名(よみがな) | シャシン |
形状 | 桐箱入り硝子乾板写真 |
収集場所 | 北葛城郡広陵町広瀬 |
寸法(高さ、縦)cm | 12.10 |
寸法(幅、横)cm | 9.10 |
寸法(奥行き)cm | 1.60 |
指定種別 | 奈良県指定有形民俗文化財 |
指定分類番号 | 04-1〈45〉 |
指定名称 | 大和万歳資料 |
資料解説 | 明治2年に京都で撮影された、親子の写真です。胸や袖などに丸に橘紋装束のを染め抜いた万歳衣装を身に着け、子が扇をもつことから太夫役、父が鼓を手にした才蔵役のようです。明治2年正月10日の日付から、内裏で万歳を奉納して間もない時期の記念写真と思われます。この年3月に、天皇は京都を出て東京に移りました。翌年、翌々年の正月も天皇不在ながら、京都御所で万歳は奉納されましたが、以降、奉納は行われなくなりました。 裏蓋墨書:「明治二己巳正月十日/京都三条通東佶北川/御定宿大坂屋伊兵衛」「父 御歳四十三才重兵衛/子 同拾壱才 助松」 中央の張紙「京誓願寺内北ノ門/日登見」(朱印押印) |
資料説明詳細 | 万歳は、平安時代には存在したといわれる千秋万歳の末流と考えられている祝福芸の一種で、大和における万歳の記録は、元亨4年(1324)の『内山御所毎日抄』を初出として中世からみられます。 近世になると、特色をもったいくつかの系統の万歳が全国各地で行われるようになり、大和国広瀬郡、平群郡、式下郡などから訪れ、京周辺、大和国内を旦那場として巡回する人々は、「大和万歳」として知られていました。正月に太夫役と才蔵役の2名が一組となり、烏帽子、素襖の装束で家々の門口や座敷で祝言を述べ、舞を演じました。太夫は扇を持って祝言を唱え、才藏が小鼓を打ちながら合の手を入れます。正式に演じるときは「柱立」を初番として「田植舞」「南蛮胡椒」「戎舞」「月舞」と次々演じていきます。 明治時代の開化諸政策の中、一旦廃止となりましたが、その後復活、大正年間までは巡回していたようです。しかし、昭和初期には廃止の申し合わせが行われ、その後昭和30年4月、奈良県の無形文化財の指定を受けていますが、昭和40年代頃に入ると伝承者も皆無となり、昭和52年、奈良県文化財保存顕彰規定が文化財保護条例となった際、後継者がいないとして更新は行われませんでした。 本資料を含む「大和万歳資料」48点は、昭和56年(1981年)4月、最後の伝承者の御子息(故人)より寄贈を受けたものです。大和万歳のかつての活動を具体的に伝える貴重な遺品であり、平成24年度(2013年3月)奈良県有形民俗文化財指定を受けています。 |
参考文献 | 鹿谷勲「大和万歳資料について」(奈良県文化財保存課提出資料『奈良県立民俗博物館所蔵大和万歳資料』 2013年3月) 山村雅史「「大和万歳」に関する研究ノート」(奈良県立同和問題関係史料センター」『研究紀要』第3号 1996年3月) 吉田栄治郎「大和万歳祖神考」(奈良県立同和問題関係史料センター」『研究紀要』第8号 2002年3月) 鹿谷勲「奈良県の万歳芸」(『秋篠文化 特集万歳』秋篠音楽堂運営協議会 2005年1月) 大阪人権博物館『万歳 まことに めでとう そうらいける』図録(2007年9月) 『大衆芸能資料集成』第1巻 祝福芸1 萬歳 三一書房 1980年 |
備考 | 宮本義光氏のご子息である宮本義雄氏が、父の従兄弟にあたる叔父より資料の存在を知り、2007年来館。宮本義光氏は、既に亡くなり、義光氏の弟も2006年に亡くなったため、大和万歳資料について知る身内は誰もいなくなったとのこと。非公開の事情(義光氏の意向による)を説明したところ、歴史的に貴重な資料であれば、むしろ公開してほしい、との意向であった。2007年9月に大阪人権博物館で開催された「万歳-まことにめでとうそうらいけるー」で貸出申請があり、改めて義雄氏に連絡の上許諾していただけたことから、以後は公開資料として取り扱っている。 |