脇差 銘 石堂運寿斎是一作 嘉永元年八月日 /同年十一月廿五日於千住両車裁断 同日同胴乳刻裁断 切手山田朝右エ門吉利  附)朱塗鞘脇差拵

タイトル脇差 銘 石堂運寿斎是一作 嘉永元年八月日 /同年十一月廿五日於千住両車裁断 同日同胴乳刻裁断 切手山田朝右エ門吉利  附)朱塗鞘脇差拵
タイトル(よみ)わきざし めい いしどううんじゅさいこれかずつくる かえいがんねんはちがつじつ /どうねんじゅういちがつにじゅうごにちせんじゅにおいてりょうしゃさいだん どうじつどうどうちちわりさいだん きりてやまだあさえもんよしとし つけたり)しゅぬりざやわきさしごしらえ
タイトル(英語)Wakizashi. Inscription: Made by Ishido Unjyu Korekazu, August 1848/Test cutting of waists in Senju performed on November 25, 1848, test cutting of torsos by Yamada Asaemon Yoshitoshi on the same date Accoutrements: Red Lacquered Sheath and Wakizashi Mounting
解説刀の姿は、反りが浅く、鋒が刃長に対して大きくのび身幅も重厚、剛健である。刃文は、静かに波打っているが、幅に広狭がある。地鉄は、柾目のような模様がみえる。茎には目釘穴が一つしかなく、磨り上げされておらず生ぶのままである。
拵えについては、斜めに刻みが入れられた朱色の鞘が目を引く。朱鞘は江戸時代末期、若者や浪人たちの間で大変流行し、「肥後の朱(あか)鞘」などとも呼ばれる。
この刀は、その銘から石堂運寿是一が嘉永元(1848)年に作刀したものとわかる。そして、その時期から新々刀に区分される。是一は、出羽国(現在の山形県)米沢の刀工、長運斎(ちょううんさい)加藤綱俊の甥で、江戸に出て、石堂是一の七代目を継ぎ、江戸時代末期に活躍した。
また裏には、截断銘(さいだんめい)と呼ばれる切れ味を記した銘がある。その銘には、作刀された3か月後に試し斬り役を務めていた山田朝右エ門吉利によって、両車(下腹部)と胴、乳割(胸上部)を試し斬りした旨が記されている。(M.E)

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