不詳
作者 | ラグーザ・玉 |
---|---|
制作年代 | 不明 |
寸法(cm) | 26.3×23.3 |
人物名(ヨミ) | ラグーザタマ |
---|---|
人物名(英語) | RAGUSA,Tama |
略歴・解説 | 江戸・芝(現・港区)に生まれる。本名、清原玉。1877年、工部美術学校のお雇い教師として来日していた彫刻家のヴィンチェンツォ・ラグーザと知り合い、のちに彫刻のモデルを務めるようになる。1880年、ラグーザと結婚。1882年、夫と共にイタリアへ渡る。パレルモ大学美術専攻科に入学し、油彩画やイタリア語を学ぶ。1884年、ヴィンチェンツォが私立工芸美術学校を創設。玉は教授となる。同校は、のちにパレルモ市立となり、玉は副校長を務めた。教鞭をとりながら、イタリア国内や海外の美術展に出品し、受賞を重ねる。1927年、ヴィンチェンツォ死去。夫の死後、日本に対する郷愁の念が募り、1933年、51年ぶりに日本に帰国。帰国後は、東京の芝区に暮らしながら身近にある草花や果物を描いたり、箱根や京都などへ写生旅行に赴いたりと日本においても制作を続けた。1939年4月6日、逝去。享年78歳。亡くなった翌月の5月26日から30日まで、日本橋髙島屋において「ラグーザお玉夫人遺作展覧會」が開催された。 |