服部 宇之吉

人物名(ヨミ)ハットリ ウノキチ
出身地二本松
没地東京市淀橋区
没年月日(西暦)1939/07/11
没年月日(和暦)昭和14/07/11

略歴・解説

二本松藩士服部藤八の3男として生まれ、幼少の頃父母と死別し藤八の弟夫婦に育てられる。その叔父が旧二本松藩邸に勤務した関係で、世子の学友として漢学塾に学ぶ。明治23年東京帝国大学哲学科を卒業し、文部省・第3高等学校・東京高等師範・文相秘書を経て、同32年東京帝大文科大学助教授となり清国・ドイツに留学。同35年帰国し、東京帝大教授となる。直後に清国政府の招請で北京大学主任教授として、また清朝廷の家庭教師として隣邦の教育に尽力。大正4年には、ハーバード大学で支那哲学の講義をし、帰国後は帝国学士院会員、東京帝大文学部長となる。同10年東宮職御用掛を拝命、御講所始には漢書御進講の栄誉を担うに至った。一方、京城帝国大学創設の準備に従事、同15年同大学総長となり、また裕仁親王の進講御用掛を拝命。昭和3年本管を辞し、東京帝大名誉教授となり、国学院大学学長・東京文化学院長・日華学会理事長などの要職を歴任。篤学力行・人格崇高の人で、日本弘道会・哲学会・清明会等にかかわり、東洋文化や国民道徳の復興に尽力、また中国哲学の世界的権威として学会に大きな足跡を残した。主な著書に『東洋倫理綱要』『孔子及孔子教』『清国通行』などがある。
【通称など】随軒

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