略歴・解説
二本松藩士・梅原直次郎の次男、同山田友松の養子となる。維新後、三菱財閥の創始者岩崎弥太郎との出会いにより、志を殖産(蚕糸業)に注ぐことを決意。明治6年小野組代理人佐野利八や実兄梅原親固らと共に二本松製糸会社創立に参画、同年6月8日完成、18日操業を開始。梅原・山田兄弟の献身的な努力は相当のものがあったという。同7年1月大出資社小野組が経営より手を引き、梅原・山田兄弟が実権を握ることとなり、3月安斎(西)徳兵衛と共に支配人となり、同8年2月の梅原のイタリア渡航に伴い副社長に就任。同10年12月渡米、各地の製糸実情を調査し、ニューヨークに支店を開き生糸直販に大成功し工場を拡張するに至った。同18年政府拝借金を整理し、同社の解散に際し、会社所有の土地・建物一切を安西と共に譲り受け、安西には借料を支払い、民間経営機械製糸工場として「双松館」を発足、同社長となる。以後製糸法の改良に尽力し、その生産をも高め、国内はもちろん海外の品評会でも数々の表彰を受け、明治40年前後には福島県の製糸業に確固とした足場を築いた。一方、政治家(町長)・慈善家としても功績が多く、地方自治の発展に尽力。当時、「八幡様か山田様」と呼ばれたほど万民に尊敬された。墓所は二本松市成田町の大隣寺。
【通称など】省吾、権太左衛門