略歴・解説
明治45年1月28日、高橋定之助、サキの次男として生まれる。二本松町立第二尋常高等小学校・旧制安達中学校・旧制第二高等小学校を経て、昭和13年東北帝国大学医学部を卒業。同年4月放射線医学教室に入局、古賀良彦教授の許で学ぶ。17年医学部講師となり、22年青森医学専門学校教授として移住、のち弘前大学教授となる。25年にはX線廻転撮影法の研究で東奥賞を受賞し、その後「断層撮影を廻転横断撮影」を出版するなどCTへの基礎づくりを始めた。その年6月には名古屋大学教授として聘され、新たに放射線医学講座を開講した。その後32年には中日文化賞を受賞、34年には同附属病院中央放射線部長として診療の第一線で活躍し続けたが、その間国際学会における活躍も著しく、39年にはWHO放射線専門委員会委員、41年国際放射線防護委員会第3専門部会委員、42年米国放射線学会名誉会員等に推された。また国内においても46年には科学技術庁放射線審議会会長、日本癌治療学会名誉会員になるなど、名実ともに斯界の第一人者として、回転横断撮影による検査法を考え、研究発展させ診断的価値を高めた。昭和49年浜松医科大学副学長となり、52年には同大付属病院長として治療に携り、6月には恩賜賞日本学士院賞を受賞。54年には文化功労者として顕章、55年には愛知県がんセンター総長として医療に専念、更に56年日本学士院会員となる。その間においても海外にその名を馳せ、遂に59年晴れの文化勲章を受章。60年4月2日、二本松名誉市民に推されるも同日愛知県がんセンター病院にて死去。死後、7月にはスウェーデン王立科学アカデミーより、栄えあるゴールドメダルを授与しているのをみてもその功績の偉大さがわかる。墓所は二本松市亀谷の蓮華寺。