略歴・解説 | 二本松藩士朝河正澄の長男として、下ノ町新長屋(現・根崎)に生まれる。父の伊達郡立子山小学校校長赴任に伴い、立子山の天正寺に移住。立子山小学校から川俣尋常小学校と進み、明治20年福島尋常中学校(現・安積高校)に入学、25年首席で卒業後、東京専門学校(現・早稲田大学)に進学。29年1月米国ダートマス大学に編入学、さらに卒業後エール大学大学院で史学を専攻、『大化改新の研究』で哲学博士の学位を得、母校ダートマス大学で東西交渉史などを講義する。まもなく日露開戦となり、透徹した史眼による言説は識者の注目を浴び、学名一世にあがりエール大学への道が開かれた。滞米54年のうち、実に36年間はエール大学で終始し、日本人として初めて外国一流大学の正教授となり、東西封建制度の比較研究で前人未到の境地を開拓した世界的歴史学者である。
名著『入来文書』(英文)をはじめ数多くの著書・論文がある。また米国議会図書館に日本コレクションをつくるなど、日本の正しい紹介にも尽力した。一方、国際関係論にもすぐれ、世界的視野と日本国民の幸福という観点に立ってなされた祖国への警鐘は、日米開戦の危機の前にはだかって天皇に送るべき大統領親書の草案に熱誠をこめたことでも、偉大な愛国者であったことを物語っている。開戦後、米国は博士の学績と思想に敬意を払い、その自由を保障している。昭和23年8月、避暑研究先のバーモント州ウェスト・ワーズボロの山荘にて心臓麻痺のため死去、AP電・UPI電は「現代日本がもった最も高名な世界的学者が逝去した」と世界に向けて打電、エール大学は博士の告別式を執行した。今に残る安積高校の「朝河桜」は、博士の若き日の向学心の一端を物語るものであり、数多くの逸話も語り継がれている。墓地はアメリカ・ニューヘイブン市グローブ・ストリート墓地と二本松市金色墓地。
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