橋本雅邦

作家名よみはしもと・がほう
作家名ローマ字HASHIMOTO,Gaho
生年1835
生年(和暦)天保06年
没年1908
没年(和暦)明治41年

経歴

1835年(天保6)、江戸木挽町(現東京都中央区銀座)の狩野家邸内に生まれる。父は狩野晴川院の高弟。幼少より父に狩野派のてほどきを受け、1847年(弘化4)、12歳の時に晴川院養信に入門する。同じころ入門した狩野芳崖とは生涯の親交を結ぶ。1854年(安政元)、養川院の子・勝川院の塾頭となる。1860年(安政7)に結婚。絵師として独立する。1870年(明治3)に木挽町狩野家は火災で焼失し、雅邦も家財の一切を失う。翌1871年より兵部省海軍兵学寮に出仕し、図学などを講じる。この頃、狩野派の絵師としての活動はほとんどできなくなり、ウィーン万博出品の日本全国地図など制作するほか、油絵も描く。1884年(明治17)、フェノロサの鑑画会への参加を機に、日本画の新しい表現技法を模索するようになる。1886年(明治19)、海軍兵学寮を辞す。文部省の絵画取調所に出仕し、フェノロサ、岡倉天心のもと東京美術学校の発足に向けて準備を進める。1890年(明治23)、東京美術学校が開校、絵画科の主任となる。同年、帝室技芸員となる。1898年(明治31)、美術学校騒動により岡倉が罷免されると、行動をともにし、日本美術院の創立に参加した。1900年(明治33)パリ万博で《龍虎之図》が銀賞、1904年(明治37)、セントルイス万博では《山水額六面》《四季屏風》が最高賞を受賞した。

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