経歴 | 1898年(明治31)、長野県須坂市に生まれる。本名袈裟治。金沢医科大学を卒業。眼科医となり、1927年(昭和2)から愛媛県吉田町立吉田病院で眼科医長を務めた後、1931年(昭和6)から郷里の須坂で眼科医を開業した。大学在学中から油彩画を描くが、畦地梅太郎の影響で版画を制作するようになった。1929年(昭和4)、版画同人誌『版画CLUB』に作品を発表、以来平塚運一に師事した。1930年(昭和5)、国画展に版画作品が入選する。郷里の須坂では、須坂洋画会を開催し、十人社を結成するなど、積極的に文化事業を企画し、1933年(昭和8)には、版画同人誌『櫟』を発行した。翌年(昭和9)には、信濃創作版画研究会を設立し、平塚運一を招き版画講習会を開催するなど、長野県内の版画普及活動に積極的に取り組んだ。日本版画協会展などに出品したが、『版画藝術』『白と黒』『九州版画』『ゆうかり』といった創作版画誌に多くの作品を寄稿した。
※「新日本百景」
1931年(昭和6)に設立された日本版画協会の事業として、1938年(昭和13)秋から1941年(昭和16)にかけて刊行された木版画のシリーズ。150部限定で、第1期は樺太から台湾に至る全50景、担当作家33名も決まり、毎月3景のペースで刊行が始まったが、第2期を待たず39点が完成された時点で終結した。 |