海と緑と光あふれる南城市へ -4町村広報担当者による記事です。-史跡編
| 資料グループ | 広報さしき 第336号(2005年7月) |
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| ページ | 8 |
| 発行年月日 | 2005/07/10 |
| 内容コード | G000000828-0018 |
| 記事内容 | 知念村 知念城跡(昭和47年5月15日国指定) 知念村字知念クルク原の琉球石灰岩丘陵上に位置し、豊な水に恵まれている。近くにあるウファカルは、玉城村の受水走水と同様、稲作発祥地として『琉球国由来記』(1713年)にも記述がある。この豊かな水の恵みによりグスクを中心としたムラの発達があった。 琉球最古の歌謡集『おもろさうし』(16~17世紀編集)にも、知念城跡の記述がみえ、琉球の三山統一以前から繁栄していたことを示している。 知念城跡の史跡整備事業は始まったばかりであるが、城壁の規模や周辺の古屋敷群の様子などが解明されつつある。 佐敷町 佐敷ようどれ(昭和33年1月17日県指定) 第一尚氏初代の王である尚思紹とその妻、次男夫婦など計8名が眠る墓。 説話では、思照が佐敷に葬られることを望み、佐敷の崖下に墓が造られたという。 1764年に、崖崩れの恐れから現在の台地上に移された。葬られて以後、佐敷を一望できる場所で子孫の営みを静かに見つめているようである。 この墓の特徴は、沖縄の墓の代表的な形である亀甲墓や平葺墓などと異なり、側面から見た屋根の形が駕籠形をしていることがあげられる。 大里村 島添大里グスク(平成15年8月4日村指定) 島添大里グスクは東側丘陵縁辺部に位置し、規模2万㎡程を誇る県内でも5本の指に入るグスクである。三山時代には南山の東四間切を支配下に置くほどの大きな勢力を有した島添大里按司が当主となり、中国や日本と貿易を行い、「下の世の主」と称していた。発掘調査の結果、中国等の陶磁器等多くの遺物が出土し、その時期は13~15世紀頃と考えられている。 玉城村 玉城村跡(昭和62年8月21日国指定) 玉城村字玉城の北側の琉球石灰岩丘陵上に、三方は断崖をなし眼下に太平洋、西方は糸数城跡や本島南部が一望できる天然の要害に築かれた山城であると同時に「玉城アマツヅ」とも呼ばれる聖地である。琉球開闢神であるアマミキヨが築き、城主はアマミキヨの子孫である天孫子であったという伝承が残る玉城城跡は主郭、二の郭、三の郭で構成されていて、主郭へ通ずる門は自然石をくり抜いて築かれ、北東側を向いている。 |
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