証言 佐敷町史戦争編聞き取り調査
| 資料グループ | 広報さしき 第269号(1999年12月) |
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| ページ | 3 |
| 発行年月日 | 1999/12/10 |
| 内容コード | G000000737-0004 |
| 記事内容 | 「米兵はフレーズブックという冊子を持ち、ページをめくって指を当てました。『助ける』という文字を見た時は、ホッとしましたよ。」 字津波古在住 高江洲八重子さん(71才) 私は父山城柳八と母スミの二女として、字津波古で生まれました。三男二女の五人きょうだいでしたが、教員だった姉はよそにいて、長兄も県立第一中学校在学中に病死したので、沖縄戦の頃は二男の時正と私、そして末っ子の三男柳太郎の三人でした。 私は首里高等女学校の3年生でした。看護隊には行かずにすみました。 1945年(昭和20)3月23日に空襲があり、24日からは艦砲射撃が始まりました。私たちはチブガーラ(現在の馬天小学校に向かって右)沿いに家族の壕を掘ってありましたので、最初はそこに避難していました。艦砲が激しさを増す中で、25日の夜、今度は持てるだけの荷物を担いで父と母、私、弟の柳太郎の4人で、割当て疎開地の金武に向かいました。時正はその前に、学童疎開で宮崎に行っていました。 金武の疎開地は山の中の開墾地で、そこに仮小屋が準備されていました。母は食糧を取りに佐敷に引き返しました。その母が29日か30日頃戻ってきたあと、今度は私が交代して家に来ましたが、私が再び金武に向かおうとした時はすでに米軍が上陸していて、もう戻れませんでした。 家族と離ればなれになった私はチブガーラの壕で、上新田のおばあさんと一緒に過ごすことになりました。中城湾には米軍の船がぎっしりでした。艦砲がすさまじく、津波古は家もほとんど残っていませんでした。道路も爆弾にえぐられて、あちらこちら穴だらけでした。 不思議なことにタ方は、米軍の艦砲射撃が中断しました。その間に私たちは畑に行って芋を堀り、焼け残った家で煮炊きをしては、また壕に戻るという生活でした。夜、畑に行ったりする時、一番怖かったのは人に会うことでした。暗やみの中では、相手が誰だか分からないのですからね。 四月末頃、私たちがトンボと呼んでいた米軍の偵察機から、たくさんのびらが落ちてきました。「日本は負けている」という内容でしたが、私たちは神州不滅の教育を受けていますから、5月27日の海軍記念日までには日本が勝つ、と信じていました。 ところがその海軍記念日の頃、米軍は馬天から上陸してきたのです。壕からそれが見えたので、私はおばあさんを連れて場天ギタの壕に移リ、さらに佐敷国民学校の後ろの壕に移動しました。しかしそこからも、また移動です。玉城の親慶原の壕に行きましたら、南部に向かう人たちでいっぱいでした。具志頭に行くか、玉城の百名に行くか迷いましたが、私はおばあさんを連れているので、結局百名に向かい、そこから知念村志喜屋に入りました。 志喜屋で偶然、同じ津波古の防衛隊の人に会いました。その人と一緒に壕を探している間に、志喜屋の高台の岩山が米軍に機銃掃射されました。私たちは具志堅の山に逃げこみました。 するとそこに、いとこの兄さんのほか津波古の親戚の人たちがたくさんいました。少し安心して、いとこと壕探しに行き戻ってみると、誰もいないのです。皆のことを案じていると、「アメリカ兵は何もしない」と伝言が入ってきました。そして間もなくやってきた米兵に捕まりました。米兵はフレーズブックという冊子を持ち、ページをめくって指を当てました。「助ける」という文字を見た時は、ホッとしましたよ。 |
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