疎開の思い出が深いきずなに 宮崎県日之影町から訪問団
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| 発行年月日 | 1996/05/10 |
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| 記事内容 | 戦争中の学童疎開で縁のある宮崎県・日之影町から、4月16日、疎開関係者らが来町。同日夜、厚生年金休暇センターで佐敷町の疎開関係者との交流会が、盛大に開 かれました。 日之影町から訪れたのは、町収入役の梅田長秀さんを団長とする46人の訪問団。佐敷からの学童疎開者を受け入れた、当時の同級生の皆さんがメンバーとなっています。 交流会であいさつに立った梅田団長は 「当時の疎開児童らのつらさ、寂しさを思うと胸がつまる。もう少し世話ができなかったものかといつも思っている。これからも互いに手をとりあい、交流を続けていきたい」 と話していました。 参加者の中には50数年ぶりに再会をはたした方もおり、会場のあちこちから感激の言葉が聞かれました。 交流会の舞台では、日之影町・佐敷町双方から琉舞や舞踊などが出され、交流が深められました。 戦争当時、佐敷町から日之影町へは190人が疎開。以来、何度か交流があり、昨年は佐敷町から日之影町へ訪問団が出掛け、温かい歓迎をうけています。 参加者の声 甲田実さんは当時初等3年生。 「沖縄の子たちは、少ない食料とアバラ屋という厳しい状況の中で2回の冬を越した。自分は子供で何もできなかったが、『お世話になりました』 という言葉をきいて胸が熱くなった。自分らの世代だけに終わらず、末永く両町の交流が続いてほしい」 と熱っぼく語ってくれました。 字屋比久の小波津厚明さん (当時・高等2年) は今回の訪問団受け入れの中心人物。 「米やいもなどをわけてもらった事が忘れられない。当時の校長先生に家族のようにかわいがってもらった。感謝 の気持ちを言い表そうとするたびに言葉に詰まってしまう」 ともどかしげに話していました。 川崎ミツ子さん、甲斐敦子さん、富士本トモ子さんらは当時初等5年の同級生。 「何人か憶えている人がいた。元気で会えて嬉しい」「戦争は沖縄の子も私たちもみんなが犠牲者。みんなとても苦労した」「こんなに歓迎してもらってうれしい」 と感激を口にしていました。 |
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