第42回国民体育大会 軟式野球(少年男子)佐敷町実行委員会 第一回専門委開催さる
| 資料グループ | 広報さしき 第91号(1985年5月) |
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| ページ | 2-3 |
| 発行年月日 | 1985/05/10 |
| 内容コード | G000000512-0002 |
| 記事内容 | 海邦国体開催まであと29ヵ月 町民手づくりの国体を 4月26日午後6時より、老人福祉センターホールにおいて、第42回国民体育大会佐敷町実行委・第1回専門委員会が「町民の手づくりの国体に」を合言葉に開催されました。 この日、手づくり、あたたかさそして、佐敷町の美しく雄大な自然を全国にアピールし、海邦国体を成功させようと参集した専門委員は163人でした。 はじめに、「びわこ国体・湖国に炬火映えて」が上映され、つづいて実行委員長宮城繁助役のはじめのことばがあり、「地域住民の協力なくしては大会の成功はありません。町民1人ひとりの手づくりの大会をめざしましょう」との実行委会長山城時正町長のあいさつがありました。 総務企画、施設、競技・式典、広報・町民運動、宿泊・衛生、輸送・警備の各部門の専門委員への委嘱状交付が行なわれ、専門委員を代表して玉城繁佐敷小学校長のあいさつと決意発表がありました。 次に経過報告、国体準備業務概要説明が行なわれました。 7時45分からは、各部門に分かれての基本方針の確認、そして、委員長、副委員長の選任がなされました。 少年軟式野球の会場となる新開球場はすでに一期工事を終え、その偉容をかい間みせていますが、2年5カ月後にせまった国体の成功は、今後の専門委の活動いかんといえるでしょう。全国大会という規模、民泊体制づくりと課題は多くありますが、町民の協力のもと体制づくりはスタートしました。 〔総務企画専門委員会〕 委員長=外間昌治 副委員長=山城健青 委員=前城勲、与那嶺紘也、仲村正治、宮城敏昭、神谷正雄、久手堅憲仁、玉城繁、當山孝吉、山城忠俊、渡慶次全信、瀬底正憲、渡名喜明、普天間敏、古謝景保 〔施設専門委員会〕 委員長=小谷正得 副委員長=上原武雄 委員=山内昌信、瀬底正秀、津波政宏、西平守正、石原雅次、津波高英、平田孝雄、玉代勢秀雄、城間勉、嶺井和夫、屋比久和彦、平田寛幸、楚南幸明、山城孝正 〔競技・式典専門委員会〕 委員長=勢理客徳助 副委員長=津波元徳 委員=目島憲幸、上原弘一、玉城正實、當間和雄、外間昌秀、当山昌夫、金城勲、金城弘一、宮城福源、平田吉徳、新垣繁、玉城成善、真栄城栄、小波津俊一、金城幸彦、山城寿雄、外間文雄、田場貞雄、東恩納寛一、与那嶺輝子、嶺井久美子、新垣修、城間正一、町田米夫、上江洲徹夫、城間幸雄、永山尚子、真栄平弘子、島袋小夜子、真栄城玄善 〔広報・町民運動専門委員会〕 委員長=嶺井文盛 副委員長=石原昌市 委員=渡名喜元久、高江洲順達、渡辺但、仲村幸信、宮城良永、平良永進、前城文彦 与那嶺幸助、玉城幸雄、宮城忍、知念進、呉屋新大郎、呉屋武嗣、奥間邑栄、奥間常次、勢理客美代子、外間勝子、嶺井彰子、津波初江、宮城房江、城間ヨシ子、前川佳代子、玉城光子、東恩納恵美子、西田純子、吉田キミエ、稲福良子、識名シゲ子、宮城末子、嶺井和子、外間幸子、城間広子、伊禮秀子 〔宿泊・衛生専門委員会〕 委員長=新里朝善 副委員長=城間源正 委員=上原勇、志村正子、津波高徳、屋比久正男、山内昌儀、吉田勝廣、城間勝美、外間千佐江、嶺井すみ子、神谷吉五郎、亀山佐枝子、津波公子、屋比久美佐子、普天間稔、高江洲八重子、稲福春子、山城清彦、前城和子、宮城松彦、西村文三、永山盛英、小谷正吉、屋比久静市、山内昌仁、新垣恒明、与那嶺正豊、吉田高徳、長嶺友江、宮城安道、仲村政信、吉野和子、山城恵美子、島袋喜美子、城間百合子、嶺井スガ子、西江登美子、山田君子、宮城信子、渡慶次和子、楚南久恵、平田球子、玉寄幸子、吉田君子 〔輸送・警備専門委員会〕 委員長=平田安彦 副委員長=知念善吉 委員=仲村隆、山内昌治、大城盛次郎、津波茂、宮城實、小川正元、照屋朝愛、当銘健徳、大城孝一、城間明、屋良勲、城間正賢、崎間達弘、宮城寛之、玉城孝一、城間實、町田宗孝 軟式野球について 野球は、明治6年にアメリカから輸入されました。大正4年に開催された朝日新聞の第1回全国中等学校野球大会と、その後開催されるようになった毎日新聞社の春の中等学校野球大会などが全国の青少年に関心と刺激を与え、少年の間で非常な勢いで盛んになっていきました。 このころ、硬式野球を行なうまでに至らない少年たちは、テニスボールなどを利用し野球を楽しんだが、本物の野球の醍醐味は味わえませんでした。 大正8年、糸井浅次郎、鈴鹿栄両氏は、少年に適し硬式のように危険がなく、しかも少年たちに野球の指導が容易にできるボールにしたい着想から研究努力した結果、現在使用されているボールが誕生し、少年野球の普及とともに一般大衆スポーツとしても急速に発展してきたのです。昭和16年第2次世界大戦の勃発で一時中断しましたが21年混沌とした世情、物資欠乏のさ中、第1回全日本軟式野球大会が16チームの参加によって京都で開催されました。 この大会は、敗戦の痛手から立ち上がろうとする国民1人ひとりの心に潤いを与え、さらに建設的な意欲を盛り上げる有意義な大会となりました。その後この大会は、各都道府県代表1チームの参加で行なわれるようになり、軟式野球は発展していきました。現在、全日本軟式野球連盟傘下チーム数は、社会人チーム39307、少年チーム28115、約140万人の競技人口となっています。 昭和32年から全ての軟式野球人に出場の機会を与えるための高松宮賜杯全日本軟式野球大会も開催されています。また国民体育大会では、第1回から実施されている軟式野球です。 国体の軟式野球競技は、一般社会人(成年の部)と少年一部(高校生年齢層クラブチームー=少年の部)が行なわれていますが、別に規程された順位決定方法による合計点で、天皇杯順位が法定されることになっています。 (「海邦国体資料」より) |
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