都城址空堀(北東から撮影)

都城市教育委員会文化財課

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都城(鶴丸城)址

文化財番号SI-S-004
大分類記念物
中分類史跡
小分類名役所跡、陣屋跡、城館跡、防塁、古戦場その他政治、軍
指定区分市指定
文化財名(ヨミ)ミヤコノジョウ(ツルマルジョウ)アト
現所在現地
時代区分1中世~近世
制作年(始)1375
使用年代~元和元年
制作者北郷義久
制作者役割築城者
所蔵館・管理施設所有者
参考文献・報告書名都城市教育委員会文化財課『都城市の文化財』2014
参考URLhttps://www.city.miyakonojo.miyazaki.jp/site/jidaibunkazai/4044.html
現所在(入力)都島町
現所在種別(入力)現地
文化財状態見学可
公開解説都城盆地西側の起伏の少ない成層シラス台地の東端部に立地し、各曲輪の独立性が高い群郭式城郭です。  
北郷2代義久が永和元年(1375)に薩摩迫(山田町古江)の城館から当地都島に移り、「本丸」・「西城」・「中之城」・「南之城」・「外城」を構築し、「都城」と名付けたと伝わります。
その後、北郷持久は守護の命により三俣院高城に移され、一時当城は守護直轄領となりましたが、北郷敏久の時に復帰しました。
このように北郷氏歴代の居城となり、戦国期には8代忠相が従来の城域の西南部に「新城」・「池之上城」・「中尾城」・「小城」を増築したとされます。
大手口は、最西端に曲輪「中尾城」の西側に台地を分断する空堀を構築することで設けられまし(「中尾口」)。その他に「弓場田口」・「来住口」・「大岩田口」・「鷹尾口」が設けられ、出入口は五口となりました。
文禄4年(1595)に北郷氏は祁答院(鹿児島県さつま町・薩摩川内市の一部)に転封となり、替わって伊集院忠棟(幸侃)が城主となり、「取添」は、この時期に増築されたと考えられます。
慶長4年(1599)に勃発した庄内合戦の後は、再び北郷氏の居城となりましたが、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となりました。
備考指定年月日1974/05/01
公開解説引用『都城市の文化財』

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