蠣崎 波響

人物名(ヨミ)カキザキ ハキョウ
人物名(英語)Hakyo KAKIZAKI
人物名(別名)広年、世枯、梅痩、柳眠
国籍日本
出身地福山
没年月日(西暦)1826/06/26
没年月日(和暦)文政09年06月26日

略歴・解説

蠣崎波響は明和元年(1764)、松前家12世資広の五男として松前の福山館で生まれました。幼名を金助、後に弥次郎。2歳で松前藩の家老、次広系蠣崎家の養子となります。成年後は蠣崎将監広年と名乗り、雅号として波響のほか、世枯、梅痩などがあります。
波響は藩随一の知識人といわれた叔父・松前広長の教育を受け、幼い時から詩文や画の才を現したといわれます。青年期には江戸で和学、書や画を学び、建部凌岱、宋紫石や円山応挙といった画人と交流し、その才を磨き上げていきました。20歳で松前へ戻り、家老として藩政の中枢を担っていきます。そして波響43歳の文化4年(1807)、松前藩に梁川移封が命じられたのです。このとき波響は筆頭家老。若き藩主を支える行政マンとして働く傍ら、広瀬川河畔の自宅で画を描き続け、それらを売却して復領運動の資金に充てていました。波響は毎朝4時に起床し、小箋紙(手の平サイズの紙)に画を描き、梁川陣屋への出勤前に梁川天神社へそれを奉納したと伝えられています。
こうした活動の甲斐もあって、松前藩は文政5年(1822)に松前への復領が叶いました。波響は梁川を去るに当たり梁川天神社へ灯籠一基を奉納しています。文政6年(1823)に60歳となった波響は家老を辞し、息子の波鶩(広伴)に家督を譲ります。
その3年後、文政9年(1826)6月26日、63歳で波響は生涯を閉じました。亡骸は松前の曹洞宗法源寺に葬られました。法号は「広年院殿徳随波響居士」。

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