(資料群)多度津藩政資料

資料群・作家名(ヨミ)タドツハンセイシリョウ

略歴・解説

1 資料の伝来
本資料は、多度津藩庁で作成された資料群であり、県内唯一の藩政資料である。県内某寺の濡縁に野ざらしで伝来していたものを古書店が購入し、かつて香川県立図書館長も務めた郷土史家・草薙金四郎先生の手に渡った。先生はその大半を県立図書館に寄贈し、一部は居住地にあった善通寺市立図書館へ寄贈されたが、後に善通寺市立図書館から県立図書館へ移管され、往古の状況が整った。これが平成11 年の香川県歴史博物館設立にあたり、同館へ移管され、保存・研究が進められることになった。ただし、草薙先生の所蔵していた研究書やノート類は、ご遺族の厚意により瀬戸内海歴史民俗資料館に寄贈され、草薙文庫として保管されている。この中には、先生が研究のために藩政資料より抜き取った紙片が含まれており、当館所蔵目録中に「○月分欠」などの状況が見られるものも同文庫の中に伝来している可能性がある。
なお、香川県歴史博物館は、香川県立ミュージアムへ改組され、瀬戸内海歴史民俗資料館も同分館となった。
2 多度津藩について
天正13 年(1585)春、土佐の長宗我部元親は四国をほぼ制圧するが、豊臣秀吉の侵攻により、同年8 月に四国は統一政権に組み込まれた。讃岐には仙石秀久が配されたが、秀久は島津征討に参陣、豊後戸次川の戦で大敗し領知を没収される。同15 年には尾藤知宣が讃岐国主となるが、知宣もまた、日向での作戦失敗によって領知を没収され、かわって讃岐国17 万石には同年8 月、生駒親正(近規)が封じられ、生駒氏によって本格的な近世政策が展開された。
親正は新たに高松城・丸亀城を築き、丸亀城には嫡男一正が入った。関ヶ原の戦では、親正が西軍に、一正が東軍についたため、戦後の慶長6 年(1601)5 月、讃岐一国が一正に安堵された。一正は、丸亀から高松に移り、丸亀城は廃される。その後、生駒家は4 代高俊の時、御家騒動によって、寛永17 年(1640)7 月領知を没収され、出羽国矢島へ移された。
讃岐国は、伊予西条・今治・大洲藩の預かりとなった後、同18 年9 月に丸亀へ山崎家治が入り5 万石を領し、同19 年2 月に高松へ松平頼重が入り12 万石を領した。山崎家は3 代治頼が明暦3 年(1657)8 歳で没したため、断絶する。翌万治元年2 月、丸亀へは播州龍野から京極高知が入部した。この時の領知高は、龍野1 万石を含む6 万石であった。
2 代京極高豊は、元禄7 年(1694)5 月、参勤交代の途中で没したが、この時嫡子縫殿(高或)に家督を譲り、庶子喜内(高通)を分家するよう遺言した。願いどおり翌月、1 万石を分知し、多度津藩が成立した。以後幕末まで、讃岐国は三藩体制が継続する。
多度津藩領は、多度郡15 ヶ村、三野郡5 ヶ村で、現在の多度津町と、善通寺市・三豊市の一部にあたる。高通は、麻布鳥居坂に江戸藩邸を得たが、藩政は丸亀城内西御屋敷で行った。後に、多度津藩家老林求馬は本藩からの政治的独立を目指して陣屋建設に着手した。文化4 年(1807)以前には前身となる御茶屋が完成し迎賓館的な役割を果たしていたが、ここを中心に文政10 年(1827)陣屋が完成、多度津藩政の分離独立がなった。
丸亀京極家
①高和──②高豊─┬─③高或
         │ 多度津京極家
         └─①高通―②高慶―③高文―④高賢―⑤高琢―⑥高典
3 多度津藩政資料の概要
当該資料は俗に「多度津藩日記」と呼ばれてきた資料群である。その俗称のとおり、中核となるのは、藩庁の各役所ごとに記録された公式な勤務日誌であって分厚い書冊が多い。しかしながら、葬式・法要・祭礼・事件などのいわゆる一件文書も相当数あって、一紙物も含まれている。このため、今まで用いられてきた俗称よりも「多度津藩政資料」と名付ける方がより資料の性格を表していると考える。
資料の内容は、享保5 年(1720)から明治22 年(1889)にわたる。勤務日誌は「御勘定方日記」などの表題が付されたものもあるが、大半は単に「日記」「年中日記」としか記されず、どの役所のものであるかが判読しがたい。これらの日記を記すのは月番を務める担当の家臣であり、日記類とは別に家臣の由緒を書き上げた「書入分限帳」(県立図書館旧蔵資料41、『収蔵資料目録 13・14 年度(1)』参照)と人名を照らし合わせることで、どの役所の日誌かを推定することができる。これによれば、伝来する「日記」は、家老・裏判方・大目付方・勘定方・郡方・大納戸・小納戸・南御屋敷・元方・御用所(書記方)・京都御留守居(公用所)、明治時代の家令局・家扶局が確認でき、一件文書からは、御留守居方・御用所・御作事方・奥詰所の存在が確認できる。
もとより、これらの役所は一時に存在したわけでなく、分離・統合が行われながら推移したことも当該資料を分析することで判明する。「日記」の年代には欠落も見られるが、年代とともに次第に増加し、文化期以降細分化して急増する傾向は捉えられる。このことは、本藩丸亀藩の影響から次第に支藩多度津藩が独立していく状況を如実に物語っており、家老林求馬の改革の趣旨も充分看取できよう。
高松・丸亀の藩政資料が失われた現在、多度津藩政資料は県内唯一の藩政資料として貴重な資料群である。ところが、今までその全貌を明らかにすることはもちろん、これを用いた藩政史研究も行われてこなかった。それは前述の伝来事情により、虫損・水損のために開くこともままならない状態だったからである。歴史博物館へ移管するにあたり、全点の修復を計画し、ほぼ終了して公開が容易になった。今後、研究の進展に期待したい。
(香川県立ミュージアム『収蔵資料目録3』2011より、一部修正し転載)

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