(資料群)金集家 資料

資料群・作家名(ヨミ)かなづめけしりょう

略歴・解説

金集氏は、大正5年(1916)生まれで、昭和17年(1942)に結婚され、現在は高松市牟礼町にお住いである。
地域によって様々なバリエーションがあるが、一般に讃岐では、披露宴の当日や翌日などに、近所や親戚筋に姑が花嫁を連れて挨拶まわりをする嫁まわりや、近所の子ども達には、高松を中心とした東讃地方では、鯛持ちエビスや犬などの土人形を、西讃ではオイリといって、餅米を煎って着色を施したものを配る習慣があった。
資料1~4は金集氏の婚礼の際に、花嫁道具として高松で購入されたもので、婚礼の翌日の嫁まわりの際に、この重箱に紅白の饅頭を詰めて近所へ挨拶まわりをした。近所の人は饅頭を受け取ると、お返しをこれに詰めてくれたという。こうした重箱や重掛けもまた、花嫁道具のひとつとして周囲の人々の品評の対象とされたため、その豪華さが競われたといい、当資料も外側は黒塗りだが、内側は梨地で、重掛けには金糸、銀糸による刺繍が施されるなど、往時の習俗を伝える資料である。
資料18、19を記した加賀尾秀忍は、岡山県出身の真言宗の僧侶で、昭和24年にフィリピンの日本人戦犯の教戒師として、高野山から派遣された。フィリピンのモンテンルパの刑務所で戦犯とともに寝食を共にしつつ、彼らの釈放に向けて心血を注いだ。日本国民全体の世論も高まる中、昭和27年7月に戦犯全員の釈放、帰国が認められ一躍その功績が世に知られた人物である。坂出出身の政治家、津島寿一は昭和25年にフィリピンに対する賠償交渉の全権として、フィリピンに渡り、現地で加賀尾秀忍らと接したことをその著書にも記している。
(香川県歴史博物館『収蔵資料目録 平成11年度』より、一部修正し転載)

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