略歴・解説
平成9年度は、香川県にかかわりのある資料を中心に、博物館展示・研究業務に有益である資料を購入対象としている。紙幅の都合によりすべての資料についてふれることができないため、いくつかの資料・資料群をとりあげ、その概要について述べる。連歌は和歌から派生して中世に広く流行したもので、複数作者による共同詠作を原則とし、五七五の長句と七七の短句を交互に連鎖して百句にいたる百韻を基本形式とする。「賦何舩連歌」(1)は管領で讃岐守護の細川勝元が亭主となり讃岐守護代安富智安ら細川氏被官や、歌人として名高い長谷川正広、連歌師として名高い専順などが名を連ねている。讃岐関連の中世の史料として、また文芸史上で非常に貴重な史料といえる。大衆雑誌が急成長をはじめたのは、第一次世界大戦をはさむ時期からである。婦人雑誌「主婦之友」「婦人倶楽部」などは料理・家計などの実用記事を掲載するとともに、流行などを盛り込んでいるため、当時の風俗を知るための研究材料となる。万治元年(1658)の京極高和入封にともなって作成された「丸亀御領分絵図」(311)は丸亀藩領絵図としては最古のもので、家老岡織部家に伝えられていたものと思われる。幕府が作らせた正保国絵図の形式に準じており、郡別に色分けされた各村が俵型に描かれている。寺社参詣などの観光ブームを反映し、金毘羅をはじめとする全国の名所などをちりばめた「日本俯瞰図絵」(333)は鳥瞰図の代表者である鍬形恵斎の作である。恵斎は浮世絵師北尾政美として世に出たが、のち津山藩のお抱え絵師になり、狩野派に入って紹真とも号した画家である。この図は江戸湾から富士を前面中央に据え、北海道南部から屋久島までが魚眼レンズでとらえた映像のように弓なりに配置されている。そして水平線に朝鮮半島を描き添えることにより19世紀初頭の庶民の国土観・国民意識の形成をよみとることができる。出版技術の向上にともない、18世紀後半頃から多くの双六が制作され広く普及した。明治維新以後は文明開化、富国強兵を主題にしたものが多くなり、しだいに軍国主義の教育手段となった。大正年間以後、少年少女雑誌の隆盛にともなってその付録として双六が多数つくられ流行した。紙芝居がはじめて街頭に登場したのは昭和4~6年ごろである。戦争が熾烈となり、国民精神総動員が叫ばれ、戦時体制が強化されると軍国化への国民の啓蒙、小国民としての児童の自覚と愛国心の育成などに利用されるようになり、内容は極度に統制された。本年は太平洋戦争中に発行された戦争完遂に直接間接に関係のある教訓ものを中心に購入した。美術工芸品は、制作者・制作地・内容のいずれかが香川県に関係するか、その来歴などが香川県にゆかりのある作品を収集した。室町時代に制作された「弘法大師像」(624)は、讃岐における空海の逸話を絵画化した興味深い作品である。同様の図像は「善通寺御影」と通称され、中四国を中心に作例が知られるが、本図の制作には与田寺(大内町)住職等を務めた真言僧・増吽が関与したと考えられ、中世讃岐の仏教史を語るうえでも貴重な資料である。「猿図」(626)と「朱舜水像」(627)は、「寛政の三博士」の一人として知られる讃岐出身の儒学者・柴野栗山が賛を寄せた作品である。大阪画壇で活躍した森狙仙と、江戸画壇の重鎮として多くの作品を残した谷文晁がそれぞれ描いており、江戸時代後期に展開された栗山と絵師たちとの文化的交流の一端を物語る資料となっている。また、「柴野栗山像」(628)は阿波藩儒員・藤江石亭の筆で、晩年の栗山の姿を描いた大変貴重な作品である。「日本橋より長崎迄道中記」(635)は、江戸~長崎間の道中に見られる地名・城主名などを記すほか、道行く人々の姿まで描かれた大型の珍しい画巻である。内容から、享保年間頃の景観を表すものと推定される。唯一の工芸品である「刀 無銘吉岡一文字」(639)は、鎌倉時代末から室町時代初頭に造られた刀で、元文元年(1736)に高松藩4代藩主松平賴桓が帰国する際、8代将軍吉宗より拝領したものであることが記録から確認される。このほか、6枚の小画面を貼り交ぜた源平合戦図屏風や、讃岐の文人画家の作品など、書画中心に全16点を収集した。
(香川県教育委員会『歴史博物館整備に伴う収蔵資料目録 平成9年度』より、一部修正し転載)