略歴・解説 | 1.宇治屋渡辺家について
『志度町史』・『新編志度町史』の記述をもとに、宇治屋渡辺家について略述する。まず町史に掲載されている略系図から、宇治屋渡辺家の経歴を見てみよう。
系図は、藤堂高虎に従い武功を顕した渡辺勘兵衛源了から始まり、勘兵衛の養子となった九郎右衛門と、その子である忠左衛門敏が、慶長17年(1611)に志度へやって来たと記している。
この九郎右衛門が宇治屋渡辺家の祖である。出身は京都の宇治であり家号である宇治屋はこれに由来する。農業のほか酒を造って財を増した家とのことである(時代は降るが、弘化2年(1845)の「御領分中酒造人別記」(『新編志度町史』250頁所載)には、「志度村 伝左衛門」の記載があり、宇治屋渡辺家が酒造に関わっていたことが分かる。なおこの伝左衛門は、8代目充と考えられる)。
3代目の忠左衛門常は、高松藩初代藩主の松平頼重に仕え郷士となった。以降、4代目九郎右衛門賢、5代目伝左衛門真、6代目伝左衛門儀も同様に藩主松平家の郷士となった。
5代目の伝左衛門真は元禄2年(1689)に伊藤久兵衛の子として高松に生まれ、渡辺家の養子となって家業を継いだ。この伝左衛門真は不遠と号し、和歌俳句の道で名をあげた人物である。また茶道にも通じており、邸内に茶室臨江亭を建て、「臨江茗話」と題した茶道の心得を著している。
続く6代目伝左衛門儀も伊藤家の出身であり、養子となり渡辺家の家業を継いだ。5代目伝左衛門真と同様に、儀もまた俳諧を学び、三千舎桃源と号した。同郷、同時代人である平賀源内とも親しく、彼の小祥忌には句を添えた追悼文を贈っている。6代目伝左衛門儀も、5代目伝左衛門真と同じように伊藤家の出身。養子となり渡辺家の家業を継いだ。また志度村の庄屋も勤めたと記されている。
7代目周助彰も志度村の庄屋を勤めた。天明~寛政年間の人で、一時期鴨部下庄村の庄屋を兼帯していたとのことである。
8代目伝左衛門充は、前掲の弘化2年『御領分中酒造人別記』に「志度村 伝左衛門」と見える人物である。また文政2年(1819)に高松藩によって置かれた砂糖会所の座本を申しつけられている(「御法度被仰出留」(丸岡家文書・瀬戸内海歴史民俗資料館蔵)による。なお、丸岡家文書については未確認であるが、後掲木原論文に掲げられた釈文によっている)。その後、文政8年まで砂糖会所関係の記録に見え、翌9年には代わって渡辺忠兵衛が記載されている(後掲木原論文参照、丸岡家文書「諸仕出扣覚帳」。忠兵衛とあるのは、あるいは系図に見られる弟の忠左衛門のことであろうか)。 8代目伝左衛門充は庄屋を務めたという記録はないが、志度村の産業を支える重要な人物であった。
伝左衛門充の跡を襲った政太郎は、明治23年(1890)3月に志度村会議員になり、5月には助役(収入役兼務)に就任した。
このように、江戸~明治時代にわたり宇治屋渡辺家は志度村の政治・経済の中枢にいた家である。
2.宇治屋渡辺家資料について
当館が収集した宇治屋渡辺家資料については、既に原状を失っており、箱に一括して入れられている現状のまま番号を付している。この目録ではおおよその年代順に並べているが、この渡辺家文書は、以下のような資料群に分かれている。
①明治期、渡辺家の家督相続に関わる文書群
②江戸時代、天明~寛政年間の田畑質地証文
③江戸時代、文化・文政年間の帳簿・書状など
④その他
①明治期の文書群
明治32~45年(1899~1912)のものが中核を成している。明治32年に当主である渡辺政太郎が死亡し長男が家督を相続するが早世、翌33年には更に家督を相続した弟と実母が不動産類の登記を行うが、この一連の家督相続に関わる諸文書が一群を成している。
②田畑質地証文
①の不動産登記と関わるものかは不明だが、天明~寛政年間に渡辺家に集積された田畑証文類が一群を成している。
これらは志度村の庄屋を務めた渡辺周助の代に集積されたものである。そのうち寛保~安永年間の証文類には、奥に天明2年(1782)や6年に入るとの書き入れがあり、寛保~安永年間に質物として売買された田畑が、天明年間に渡辺家の元に集積されたと考えられる。多くに見られる「半左衛門」は宝暦12年(1762)に八丈島まで漂流した木屋半左衛門と比定され、木屋半左衛門が集積した田畑が渡辺周助へと移ったと考えられる。近世における土地集積の様相が分かる資料群である。
③文化・文政年間の諸文書
文化・文政年間の8代目渡辺伝左衛門充に関わる書状類が中核を成す。また年紀は不明であるが、砂糖に関係する文書が散見する。これは、渡辺伝左衛門充が文政2年に砂糖会所座本に就任したことによるものであろう。
④その他
その他の年紀不明の資料には、木材や海上輸送に関する書状、漁場に関わるものと推測される志度湾の略図などがあるが、これらも、志度村の庄屋を務め、志度浦における重要な地位にいた宇治屋渡辺家の活動を物語るものであろう。
こうした経済的な文書だけでなく、長崎通詞となる本木栄之進から伊藤久兵衛あての書状(11)には、平賀源内の近況報告が記されている。伊藤久兵衛は5代目伝左衛門真(不遠)の実父と同じ名前だが、あるいは伊藤家の通り名かもしれない。また6代目の伝左衛門儀(桃源)は俳句を通じ源内と交友があり、この文書から宇治屋渡辺家、伊藤家、平賀源内、長崎本木家という交友関係が見られる。
茶席用の什具が書き上げられている帳簿は、茶室臨江亭を建てた五代目伝左衛門真(不遠)との関わりがうかがわれる。その他に、蹴鞠関連と思われる図(1)など文化的な資料も含まれている。
(香川県歴史博物館『収蔵資料目録 平成10年度』より、一部修正し転載) |